弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
不定期に更新していく、
Web版よろず生活図鑑です。
紙面を見逃した方も、初めて読む方も、
分かりやすい内容となっています。

2009.07.29

伝承される津軽の舞

挿絵1

夏の盛りに江戸の2人を大館生まれの佐吉が弘前案内『奥州道中記』

『御国巡覧滑稽嘘尽戯』に遅れること5年、元治2年(1865)に『奥州道中記』が刊行された。遍四半半丸が著したこの作品は、夏の盛りに江戸生まれの弥次郎兵衛と北八の2人を大館生まれの佐吉が案内する趣向で、3人は羽州街道を北上して矢立峠から津軽領へ入り、碇ヶ関、大鰐、石川、小栗山、千年川とたどって弘前までの3泊4日の旅をする。

挿絵2

旅をこよなく愛し、人に愛された菅江真澄

江戸時代後期、津軽をくまなく歩いた旅行者がいた。菅江真澄。博学者でもある彼は、訪れた各地の風習や習慣、伝承を書きとめ、写実的なスケッチ画を描いた。記録した旅行記は200冊を数え、それらは『菅江真澄遊覧記』と総称されている。 

『楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)』。天明5年(1785)、大間越より津軽領へ入った菅江真澄は五所川原を経て弘前で名月を眺め、松前に渡ろうと青森へ至るが、天明の飢饉のため断念し、引き返して矢立峠を越え秋田へ入った。

天明8年(1788)の『率土か浜つたひ(そとがはまづたい)』では狩場沢より津軽へ入り、津軽半島を東岸沿いに北進、三厩から舟に乗り松前へ渡っている。 寛政7年(1795)3月から寛政8年(1796)4月までの2ヵ年に渡る旅の草稿は、後人の手によって『津可呂の奥(がろのおく)』に纏められた。

また、寛政8年の秋からは西目屋村の暗門の滝を見るために、当時滞在していた深浦から往復した記録には『雪の母呂太奇』の名が付けられている。

菅江真澄が歩いたのは、整備され、宿場も整えられた安全な道ばかりではない。時には宿の当てもなく、時には雨や雪に降り込められる寄る辺ない旅を続ける菅江真澄を、人々は温かく迎えた。

雪降り積もる黒石市の高舘で宿を求めた菅江真澄に、家の主は自分の場所を与え、「こんな奥地で大雪に遭い、こんな粗末な家で寝ることになるとは可哀相だ」と菅江真澄の身上を我が事のように悲しんだ。

また、冬に暗門の滝を見に行こうとした菅江真澄に、川原平の家の主はカモシカの毛皮の服を貸し、無事に戻ってきた菅江真澄を歓迎している。

旅行記にはこうした記述が散見し、その土地の人と同じ目線であろうとする菅江真澄と、実直な彼の人柄に好感を抱いて交流を深める人々の様子が浮かび上がってくる。

藩政時代に記録された津軽

実際に津軽を訪れた人々もまた、当時の津軽の情景を多く記録していた。

宝暦8年(1758)、津軽を訪れた上方の商人が著した『津軽見聞記(つがるけんもんき)』は、商人が綴っただけあって名所の他、物価や名物、その値段が細かく記されている。

また、旅行は若者のだけの特権ではない。南部藩士・菊池成章は65歳という年齢ながらも諸国巡りの旅行に出立した。彼の旅行記『伊紀農松原(いきのまつばら)』は、短いながらも高い教養が感じられる記述が多い。

挿絵3

挿絵4


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