ねぷたの起源「考」・移変り
ねぷたの起源には諸説あり、「坂上田村麻呂が、蝦夷(えぞ)をおびき出すために燈籠を用いた」、「為信が京都の盂蘭盆会(うらぼんえ)に大燈籠を出した」などの言い伝えがある。
しかし、現在では、夏の農作業の妨げとなる眠気や怠け心などを水に流す「眠り流し」の農民行事や、七夕祭の松明(たいまつ)流し、精霊流し、盆燈籠などさまざまな習俗が独特の変遷をたどりながら、ねぷたの原型ができたのではないかという説が有力となっている。
ねぷたが初めて記録に登場するのは、享保7年(1722)の『御国日記』である。5代藩主信寿(のぶひさ)が、紺屋町の織座(おりざ)で「祢ふた」を高覧したとある。
弘前藩江戸定府の藩士・比良野貞彦(ひらのさだひこ)が著した『奥民図彙』の「子(ね)ムタ祭之図」天明8年(1788)には、四角形や長方形の燈籠が描かれているが、時代と共にねぷたの形も変化したようだ。
文化・文政期に入ると、経済力を持った町人が増え、町人文化が華開いていく。弘前藩は十万石に昇格し、天守閣も再建されるなど、城下にも華やいだムードが満ちていたと思われる。そうした背景もあってか、この頃から組(人形)ねぷたが出現し、大型化が進んだようだ。
その後、明治維新、廃藩置県といった激動期を経て、「開き」の入った扇燈籠が作られるようになった。城下町の気風を反映した勇壮な武者絵が祭りムードを盛り上げたこともあり、以来、扇ねぷたが主流となっていく。
大正3年(1914)には、市内で初めて合同運行が開催された。昭和の中頃になるとバッテリーが普及し、照明はろうそくから電気に変わり、次第に現在の姿に定着したようだ。
「弘前ねぷたまつり」は、8月1日に開幕。今年は、過去最多となる82台のねぷたが出陣し、城下町を練り歩く。






