豪商「金木屋」のまかない料理
江戸時代中期以降、藩財政の窮乏により
次第に生活苦にあえぐ武士に対し、
豪商といわれる有力町人は、
逆に裕福な暮らしぶりとなっていく。
山一金木屋2代・武田又三郎(俳号・玉之)は、
一代で藩の御用達になった富商で、
文化元年(1804)には亀甲町に質店を開店、
同2年には賀田に家を買い求め造酒業を開いた。
3代目・又三郎(俳号・敬之)が書いた
『金木屋日記』は、
天保8年(1837)から慶応元年(1865)に
至る日記で、当時の暮らしを知るうえで
貴重なものとなっている。
安政3年(1856)6月26日の同日記には、
「今日別荘柱立致し候」とあり、
大工たちをねぎらって料理を振る舞っている。
「昼過ぎ一杯呑ませ候、砂鉢玉子巻、かすべ
するめかんな懸け油煮、干し鱈さけ田夫一丼、
鯨木瓜なます一丼、吸い物代わり賄鯨にひる〆」と
ある。ちなみに、初代・吉兵衛が伝え残した
「山一質店自分之掟」には、
「朔日、十日、廿日には其の時の下直なる
生肴見合わせ相い調食べさせ申す事」
「平生は汁、漬物一しきの膳菜に限り申すべき事」
とあり、一家はこれに忠実に
10日に一度しか生魚を食べないように
倹約して暮らしていたようだ。
そうしたことからみれば、
この日の献立は非常に豪華なものだったといえる。
江戸時代中期以降、藩財政の窮乏により
次第に生活苦にあえぐ武士に対し、
豪商といわれる有力町人は、
逆に裕福な暮らしぶりとなっていく。
山一金木屋2代・武田又三郎(俳号・玉之)は、
一代で藩の御用達になった富商で、
文化元年(1804)には亀甲町に質店を開店、
同2年には賀田に家を買い求め造酒業を開いた。
3代目・又三郎(俳号・敬之)が書いた
『金木屋日記』は、
天保8年(1837)から慶応元年(1865)に
至る日記で、当時の暮らしを知るうえで
貴重なものとなっている。
安政3年(1856)6月26日の同日記には、
「今日別荘柱立致し候」とあり、
大工たちをねぎらって料理を振る舞っている。
「昼過ぎ一杯呑ませ候、砂鉢玉子巻、かすべ
するめかんな懸け油煮、干し鱈さけ田夫一丼、
鯨木瓜なます一丼、吸い物代わり賄鯨にひる〆」と
ある。ちなみに、初代・吉兵衛が伝え残した
「山一質店自分之掟」には、
「朔日、十日、廿日には其の時の下直なる
生肴見合わせ相い調食べさせ申す事」
「平生は汁、漬物一しきの膳菜に限り申すべき事」
とあり、一家はこれに忠実に
10日に一度しか生魚を食べないように
倹約して暮らしていたようだ。
そうしたことからみれば、
この日の献立は非常に豪華なものだったといえる。
