弘前藩よろず生活図鑑 Web版

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2009.10.31

テレビなどで見かける江戸時代の「ファッション」。実は細かな規制や、独特の風習と装いがありました。

弘前藩の細かな規制

江戸時代は、士農工商と身分が明確に分かれており、そうした階級差を維持するために、衣服着用に関して厳しい規定があった。藩日記にも、衣服の種類や生地の統制などに関するおふれがたびたび登場する(別記参照)。

武士の礼装は、大紋(※1)・長袴(ながばかま)、熨斗目(のしめ)(※2)などで、火事などの非常時や旅行の際は、野袴(のばかま)(※3)をはいた。また、膝下の部分が細くなった裁付袴(たつつけばかま)もあった。

武家女性の礼装は、打掛(うちかけ)で、武家の子どもは男女共に振り袖を着用し、成人すると袖を詰めて小袖(着物)を着た。小袖、振袖共に季節に応じて3種類あり、それぞれ着用期間が定められていた。武家では無地が多く、柄物も小紋などで、町方に比べて地味であったようだ。また、高貴な色である紫をはじめ、紅、桃色が禁じられた時代もあったという。

町民・農民の装い

豪商などの有力町民に対しては、藩主に御目見(おめみえ)する時や祝言、節句などの特別な場合に限り、裃(かみしも)の着用が許された。

町民の衣服は、老人など例外を除いて、原則は木綿であった。『御用格』〈寛政本〉第13 町「衣類之部」寛政2年(1790)2月11日の条には、町人の妻子は絽(ろ)(※4)ではなく麻の帷子(かたびら)(※5)を着るよう、また、召使いに対しては羽織を禁ずるかわりに、冬の上張(うわっぱ)り(※6)には浴衣を着よと命じている。 こうした町民に対する規定は、その後の享和・文化・文政期(1800年代前期)にもたびたび見られる。

財政の窮乏に伴い藩士らが困窮していくのに対し、次第に財力をもった町人が華美な衣服を着用するのを律し、身分秩序を維持しようとしていることがわかる。女性用の帯は、江戸時代以前は細ひも帯を前結びにしていたが、幅広帯の後ろ結びに変化した。

だが、農民女性は女帯どころか木綿三尺(もめんさんじゃく)(※7)の使用さえ禁じられ、代わりに麻帯、ひも、たな(※8)を締めよと命じられた。

農民の衣服は、寛政2年以前は麻布の着用が原則で、それ以降は麻布と木綿の併用となった。天明8年(1788)から寛政元年(1789)までに記録した『奥民図彙』には、野良着に藍で染めたモンペ(※9)姿、素足に草鞋(わらじ)を履きケラを着た男性が描かれている。女性の野良着は刺しこぎんにモンペ。冬にはカッコロ(皮衣の詰まった呼び名)という獣皮を着た。

※注釈の説明

  1. 大紋/大型の家紋を5ヶ所につけた、上級武士の礼服
  2. 熨斗目/腰部に太く模様を織りだした着物。武士の礼装として裃の下に着用した。
  3. 野袴/裾に広く縁取りした袴。
  4. 絽/薄く透き通った絹織物。
  5. 帷子/単衣(ひとえ)の着物。
  6. 上張り/衣服が汚れないように上に着るもの。
  7. 木綿三尺/木綿製の、幅を細く短く仕立てた帯。
  8. たな/農民が帯の代わりに締めた、幅の狭い麻布。
  9. モンペ/袴の裾を足首のところでくくりつけるようにした形のももひき。

挿絵1

挿絵2

挿絵3


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