弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
不定期に更新していく、
Web版よろず生活図鑑です。
紙面を見逃した方も、初めて読む方も、
分かりやすい内容となっています。

2009.11.02

テレビなどで見かける江戸時代の「ファッション」。実は細かな規制や、独特の風習と装いがありました。

文明開化と共に、洋装・洋髪へ

明治4年には太政官布告が出され、男性はちょんまげを落とし断髪するようになった。女性の間では、束髪(そくはつ)が大流行。束髪には「マーガレット」、「夜会(やかい)巻き」などがあり、鹿鳴館(ろくめいかん)時代の影響もあり一世を風靡(ふうび)した。

大正8年には東京女子美髪学校を終えた坂本鶴が、弘前市内で美容師として結髪と美顔術を始めた。エステティックサロンの先駆けである。大正デモクラシーの影響のもと、県立弘前高等女学校は県下トップを切ってセーラー服を制服に定めた。

昭和に入り、電機パーマが流行した。弘前市城東で「ことぶき美容院」を経営していた川嶋トキノさん(82歳)は、「電機パーマの前は、クリップ状の器具に木炭を入れて髪をカールする木炭パーマでした。洋髪の流行とともに、自髪で日本髪を結うことは無くなり、かつらの毛を日本髪に結い上げることが腕の見せ所でした」と語る。

富田町の理容店「ヘアーサロン中田」の中田和子さん(80歳)は、昭和23年に理容師法が発布され、理容師国家試験制度が導入された際の一期生である。「終戦後、進駐軍がやってくると銀座街(※1)には露店ができ大変な賑わいでした。一般の女性達も裾幅30cmもあるズボンをはいたり、エナメルのぞうりをわざと擦って歩いて粋がってみせたり。うちのお客さん達も、戦時中は坊主頭だったのがリーゼントなど流行の髪型を楽しむようになり、街はどんどん変わっていきました」と、当時の思い出を語っている。

注釈の説明

  1. 土手町(パークホテル角)辺りから富田(弘大方向)に抜ける繁華街

挿絵1

藩政時代の主な衣服の素材

蚕のまゆから作られる絹は独特の光沢と柔らかな肌触りが特徴。絹の一種である真綿は軽くて温かい。上級武士のみ着用を許された。
木綿
綿花からつくられる木綿は保湿性と保温性に富む。木綿から作られる綿は草綿と呼ばれた。武士全般や町人が着用した。
大麻や苧麻(からむし)などの茎から織り上げてつくる。擦り切れやすく保温性に乏しい。農民は手製の麻衣を身につけた。

弘前藩の主な規制(本文以外)

  1. 寛文元年(1661)の「諸法度」では、百石以下の武士や平民が木綿以外のものを衣服に使用するのを禁止。
  2. 延宝9年(1681)の「百姓法度」では、農民は絹や紬を着用したり、衣類を紫や紅色に染める事を禁止。
  3. 元禄16年(1703)、農民の仕事着は麻布以外の生地の使用を禁止。
  4. 正徳2年(1712)、三百石以下の武士は木綿を着ることを規定。
  5. 享保9年(1724)、庄屋でも木綿合羽の使用を禁止され、農民は股引きと蓑の着用が言い渡される。
  6. 寛保3年(1743)、村役人に限り年始等での麻裃の着用を許可。
  7. 宝暦7年(1757)、五百石以下の武士は木綿の衣服の着用を厳命。
  8. 寛政2年(1790)、御用達や重立った町人には絹羽織や年頭等での裃の着用を許可し、召仕えや手代は羽織や麻以外の帷子を禁止。すべての農民は小巾(麻の労働着)と股引きを着用し、帯の代わりに「たな」を使用することが命じられる。
  9. 享和3年(1803)、役高や階級によって使用できる織物の種類を細かに規定。

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