弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
不定期に更新していく、
Web版よろず生活図鑑です。
紙面を見逃した方も、初めて読む方も、
分かりやすい内容となっています。

2010.05.03

大衆娯楽

夜が暗かったからこそ、花火はまさに夏の華。

江戸時代、津軽の夜空にも花火はがっていた。最も古い記録は寛文12年(1672)、4代藩主信政が夕食後に内馬場で家臣達と花火を楽しんだ、というもの。

少し下って元禄7年(1694)7月13日の記録には花火の名前まで記されている。絵図がないのでデザインまではわからないが、風流な名前に想像が広がる。

例をあげると、ぼたん・桜花・白菊・もくれん花・水仙花・あおい・山吹・糸桜・糸柳など花や木にちなむものが多い。他に、大風・大雨・雪・流星・車火・網火など、動きを想わせる名前もある。

このとき信政は、家老をはじめ足軽や料理人など131人の家来を連れての観覧だったようで、いまの小栗山にあったとされる千年山で茶の湯と花火を楽しみ、夜10時頃に上機嫌で帰ってきたという。

なみに当時の花火の色はオレンジ一色だけのようだが、充分明るく感じただろう。また、戦国時代には戦の道具だった火薬が、泰平の世には夜を美しく彩るようになったことに、身分を問わず、隔世の感を抱いたかもしれない。

もちろん規模は違うが、庶民も花火を楽しんでいた。ただ、楽しみが過ぎて火災に至るのを防ぐために、元禄15年(1702)あたりからは屋敷内での花火を禁じるお触れが何度か出たようだ。結局人々は、川原や南溜池(いまの南塘グラウンド)で花火を楽しんだという。

挿絵1

相撲に夢中な、お殿さま。
相撲にあつい、若者たち。

相撲好きなお殿様は多い。武士である限り、強いものを礼賛するのは自然な心情でもある。

ここ弘前藩でも、相撲を奨励し定期的な相撲大会を行っていた。相撲にまつわる記録も多い。勇武を好んだ3代藩主信義以降、たくさんの力士が召し抱えられたという。

4代藩主信政は、貞享元年(1684)に城内西の郭に新設した相撲場で相撲を観戦し、相撲奉行まで設置した。元禄10年(1697)には徒町・徳田町の川原で勧進相撲が行われた。5代藩主信寿は、江戸で人気の関取を呼び寄せて、西の郭で高覧したという。9代藩主寧親は文化8年(1811)に稽古場を造り、翌年に相撲を高覧した。文政2年(1819)には富田でも相撲の興行があったという。

また、城下の外、近隣の村々でも相撲が盛んだった。土俵は川原や神社の境内に造られ、旧暦6月中旬から8月まで、毎晩のように力自慢の若者たちが相撲をとった。氏神の祭りの前夜祭にも必ず行われたという。

豪商金木屋の日記には、お盆に行われた相撲大会の際、酒に酔った見物人による喧嘩に辟易している様子が記されている。相撲を見ることも相撲をとることも、どちらも庶民が心底楽しめて開放的になれる、大事な娯楽だったと言えるのではないだろうか。

挿絵2


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