弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
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Web版よろず生活図鑑です。
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2010.05.04

大衆娯楽

やあ、やあ、やあ。津軽に芸能人がやってきた。

江戸の芸能文化の花形、歌舞伎。慶長12年(1607)出雲の阿国が江戸城で歌舞伎を上演したのを契機に、寛永元年(1624)に江戸に常設芝居小屋ができ、爆発的人気を得ていく。

あまりの人気の過熱ぶりに、寛永6年(1629)には風紀が乱れるという理由で、女歌舞伎を禁じたほどだった。

そして弘前藩でも3代藩主信義のとき、正保3年(1646)に初めての歌舞伎が上演された。ちなみに延宝3年(1675)にも下鍛冶町(いまの桶屋町)で女歌舞伎が5日間、興行したと記録にある。江戸では女歌舞伎は禁じられていたはずだが、地方ではその通りにいかないことも多かったのだろう。

4代藩主信政のとき、藤八太夫という者に許可を与え、ついに元禄4年(1691)弘前藩で初めての芝居小屋が茂森に建てられた。信政としては、庶民というものは無学で文盲、礼節を知らないものだから、史実や事件を題材とした歌舞伎で教育しよう、という意図があったようだ。

歌舞伎とは異なるが延宝2年(1674)城中の書院前白砂に能舞台が完成し、初めての能楽が上演された。なんと藩士・町人にも見せたという。その後も御書院菊の間でも能楽を町人に見学させたり、下鍛冶町・大工町で勧進能が開かれたりした。芸能を通じて文化振興の種まきをしようと、お殿様がずいぶん頑張った時代なのかもしれない。

挿絵1

禁じられた遊び、花札カルタ。

日本語として定着したカルタは、そもそもポルトガル語で札・カード・手紙といった意味の言葉である。16世紀にポルトガルのカード遊びが日本国内向けにアレンジされ「天正カルタ」が生まれた。たちまち全国に広まった天正カルタは賭博の対象となったため、しばしば禁止令が出され、ついに元禄年間(1688〜1704)の終わり頃には製造販売まで禁止となる。

これに替わって登場したのが「ウンスンカルタ」である。遊戯性を高めたものだったが、これもまた賭博の道具となり禁止。そうして文化年間(1804〜17)の頃には日本的な趣向の「花札」が登場する。新しいカルタ遊びの誕生とその禁止令は、いたちごっこの様相を示していたが、ここでも「江戸花札カルタ禁止令」が天保12年(1841)に出され、カルタ札はもちろん賭博に関わる道具一切が売買禁止となった。

方で読み札と取り札によるいわゆるカルタは賭博のカルタとは一線を画する。百人一首カルタは通常の遊び方のほかに「坊主めくり」もその頃から楽しまれていた。江戸後期には「いろはかるた」が考案され、ことわざの教育をも担う遊びとなった。

弘前藩では江戸から遠く離れていたためか取り締まりがゆるく、イギリスのトランプが持ち込まれ、静かに定着していった。「ゴニンカン」というトランプ遊びもそうして受け継がれてきたゲームのひとつだが、いまや五所川原で世界選手権大会を開催するほどになっている。

挿絵2


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