弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
不定期に更新していく、
Web版よろず生活図鑑です。
紙面を見逃した方も、初めて読む方も、
分かりやすい内容となっています。

2011.06.03

涼を愉しむ行楽

津軽のお殿様も楽しんだ花火
「たまや~、かぎや~」の 掛け声と、花火の歴史

万治2年(1659)、 大和(奈良)出身の弥兵衛が火薬を おもちゃの花火にすることに成功し、 日本橋に「鍵屋」を構えた。 弥兵衛が考案した花火は、 葦などの茎に火薬を詰めたロケット花火で、 江戸で大流行。 弥兵衛は一躍花火の第一人者になった。

文化7年(1810)、 鍵屋の番頭が暖簾分けを許され、「玉屋」を創業。 夜空を舞台に繰り広げられる 2大ブランドの競演に、 観客は「たまや~、かぎや~」と歓声を上げながら、 江戸の夜空に咲く花を愛でた。

慰霊水神祭から始まった、江戸の花火大会

8代将軍吉宗の時代、 疫病による死者の慰霊と悪病退散祈願のため、 享保18年(1733)、隅田川で水神祭を行った。 この時に打ち上げた花火が好評で、 以来、 隅田川が川開きになる旧暦5月28日から 3ヶ月間、連日花火を打ち上げるようになった。 川岸には食べ物屋、川面には屋形船がひしめき、 両国橋の上は鈴なりの見物客で賑わったという。 とはいえ、当時の花火はオレンジ1色で、 現在のように円形に花開いたり、 カラフルな花火が誕生するのは、 化学薬品の技術が進む明治以降のことである。

千年山で開かれた、お殿様の花火観賞会

津軽における花火の最も古い記録は、 『弘前藩庁日記』寛文12年(1672)、 4代藩主・信政が夕食後に内馬場で家臣たちと 花火を楽しんだというもの。

元禄7年(1694)7月13日の記事には、 信政が三男・与一と共に、 藩の行楽地・千年山に出かけ、 茶の湯と花火見物を楽しんだ記録がある。 何種類もの花火の名前と共に、 当日の献立や御菓子の記述もある。 この日は家老、医者、料理人のほか、 道々の見張り番を含め約160人という 大人数だったことから、 津軽のお殿様にとっても花火見物は、 夏の一大イベントだったことがうかがえる。

花火を楽しんだ千年山とは?

藩政時代、江戸城詰めの大名の間では 全国の景勝地の情報交換が盛んに行われ、 大名たちは競うように 国元に大規模庭園を造らせた。 貞享元年(1684)、 信政が現在の小栗山に造らせた千年山は、 藩主と家族のための行楽地。 山あり谷ありの広大な敷地には12の茶亭があり、 岩木山を眺められる景勝地であったという。 当時の絵図が残っていないため詳細は不明だが、 「三河国八景之図」をモデルにしたともされる。

風雅な遊び、蛍狩り

日本最古の和歌集『万葉集』にも登場するほど、 日本人とは馴染みが深い蛍。 平安時代から上流階級には蛍を観賞する 風習があったが、 庶民に広まったのは江戸時代に入ってから。 蛍狩りの時期は立夏から1ヶ月くらいで、 うちわや笹竹などで蛍を捕まえ、 蚊帳の端切れや竹細工の虫かごに入れて観賞した。

中泊町では毎年7月中旬に 中里川上流のホタルの里で、 「ホタルまつりinなかどまり」が開催される。 夕闇が迫る頃、少しずつ灯りが増え、 やがて光が乱舞する幻想的な光景は、 美しい日本の原風景ともいえる。

挿絵1

挿絵2

千年山での行楽料理

 

信政が、元禄9年(1696)、 10月15日に千年山へ 遊びにいったときの料理。

挿絵3

挿絵4

挿絵5

※御菜園/津軽4代藩主信政の頃、 藩の御台所「菜園所」があった。 「大鰐菜園所」では温泉熱を利用した 促成栽培も行われていた。

※曳而/または引而。ひいて。 膳組以外の余分な料理で数種類出される。 本膳の膳組に記されることは少ない。


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