弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
不定期に更新していく、
Web版よろず生活図鑑です。
紙面を見逃した方も、初めて読む方も、
分かりやすい内容となっています。

祭・民俗ノ編

2009.11.03

津軽の刺し子と「こぎん」文化。

こぎん刺しの歴史

「小布」或いは「小巾」と表記されるこぎんは、農民が着た、丈の短い麻の単衣をさす言葉だった。厳しい規制の中で農民は長く麻以外の衣服を許されなかった。擦り切れやすく保温性に乏しい麻布を、いかに永く活用するか。こぎん刺しは必要に迫られた農民の知恵が生みだした

。『弘前藩御国日記』の元文元年(1736)、「花色差物布こきん」とあり、藍染めで刺しこされた衣類がこの時には既にあった。 現在のようなこぎん刺しの形態は天明8年(1788)には既に現れていた。

『奥民図彙』によると、農民の着衣は紺地に白糸で模様を刺子した「サシコ布」であり、それから80年後の安政2年(1855)に書かれた『春興刷』には、「こぎん」の原形が見て取れる。80年の歳月をかけてゆっくりと展開したこぎん刺しは、明治に入り急速に発展する事となる。

刺し子と木綿

明治に入り農民にも木綿糸が解禁され、こぎん刺しは発展・普及した。刺しやすい木綿の糸は地刺しの工夫や模様の発展を促し、労働着、普段着、晴れ着、嫁入りの持参品として、農村の娘達は競いあい、励ましあいながらこぎん刺しの技術を上達させていった。

しかし、こぎん刺しを衰退させたのもまた、木綿であった。明治24年に上野--青森間、27年には青森--弘前間に鉄道が開通するに及び、人や物の輸送が容易になった。温かく丈夫な木綿製品が自由に入手できるようになり、こぎん刺しは明治28年頃を境に一度は姿を消す事となった。

挿絵1

挿絵2

2009.11.02

テレビなどで見かける江戸時代の「ファッション」。実は細かな規制や、独特の風習と装いがありました。

文明開化と共に、洋装・洋髪へ

明治4年には太政官布告が出され、男性はちょんまげを落とし断髪するようになった。女性の間では、束髪(そくはつ)が大流行。束髪には「マーガレット」、「夜会(やかい)巻き」などがあり、鹿鳴館(ろくめいかん)時代の影響もあり一世を風靡(ふうび)した。

大正8年には東京女子美髪学校を終えた坂本鶴が、弘前市内で美容師として結髪と美顔術を始めた。エステティックサロンの先駆けである。大正デモクラシーの影響のもと、県立弘前高等女学校は県下トップを切ってセーラー服を制服に定めた。

昭和に入り、電機パーマが流行した。弘前市城東で「ことぶき美容院」を経営していた川嶋トキノさん(82歳)は、「電機パーマの前は、クリップ状の器具に木炭を入れて髪をカールする木炭パーマでした。洋髪の流行とともに、自髪で日本髪を結うことは無くなり、かつらの毛を日本髪に結い上げることが腕の見せ所でした」と語る。

富田町の理容店「ヘアーサロン中田」の中田和子さん(80歳)は、昭和23年に理容師法が発布され、理容師国家試験制度が導入された際の一期生である。「終戦後、進駐軍がやってくると銀座街(※1)には露店ができ大変な賑わいでした。一般の女性達も裾幅30cmもあるズボンをはいたり、エナメルのぞうりをわざと擦って歩いて粋がってみせたり。うちのお客さん達も、戦時中は坊主頭だったのがリーゼントなど流行の髪型を楽しむようになり、街はどんどん変わっていきました」と、当時の思い出を語っている。

注釈の説明

  1. 土手町(パークホテル角)辺りから富田(弘大方向)に抜ける繁華街

挿絵1

藩政時代の主な衣服の素材

蚕のまゆから作られる絹は独特の光沢と柔らかな肌触りが特徴。絹の一種である真綿は軽くて温かい。上級武士のみ着用を許された。
木綿
綿花からつくられる木綿は保湿性と保温性に富む。木綿から作られる綿は草綿と呼ばれた。武士全般や町人が着用した。
大麻や苧麻(からむし)などの茎から織り上げてつくる。擦り切れやすく保温性に乏しい。農民は手製の麻衣を身につけた。

弘前藩の主な規制(本文以外)

  1. 寛文元年(1661)の「諸法度」では、百石以下の武士や平民が木綿以外のものを衣服に使用するのを禁止。
  2. 延宝9年(1681)の「百姓法度」では、農民は絹や紬を着用したり、衣類を紫や紅色に染める事を禁止。
  3. 元禄16年(1703)、農民の仕事着は麻布以外の生地の使用を禁止。
  4. 正徳2年(1712)、三百石以下の武士は木綿を着ることを規定。
  5. 享保9年(1724)、庄屋でも木綿合羽の使用を禁止され、農民は股引きと蓑の着用が言い渡される。
  6. 寛保3年(1743)、村役人に限り年始等での麻裃の着用を許可。
  7. 宝暦7年(1757)、五百石以下の武士は木綿の衣服の着用を厳命。
  8. 寛政2年(1790)、御用達や重立った町人には絹羽織や年頭等での裃の着用を許可し、召仕えや手代は羽織や麻以外の帷子を禁止。すべての農民は小巾(麻の労働着)と股引きを着用し、帯の代わりに「たな」を使用することが命じられる。
  9. 享和3年(1803)、役高や階級によって使用できる織物の種類を細かに規定。
2009.11.01

テレビなどで見かける江戸時代の「ファッション」。実は細かな規制や、独特の風習と装いがありました。

「ダテ(伊達)ゲラ」

「ミノ」や「ケラ」は、農民の雨具であり防寒具であった。マダ(シナノキ)皮で作る「伊達ゲラ」は、そうした実用品のケラとは異なり、襟から背中にかけて木綿糸やコヨリで複雑な文様を編み込んだ外出着である。弓の矢や魔よけの意味を含む鳥居などの文様があり、その美しさを競い合った。

伊達ゲラよりも丈が短い「肩ゲラ」もあったようだ。これらがいつ頃誕生したかは定かではないが、弘前市沢田地区周辺の山間部では、昭和初め頃まで、嫁ぐ娘に母親がおしゃれ着として伊達ケラを編んで持たせる風習があったという。

ヘアスタイル、コスメ、履き物

鎌倉時代、兜(かぶと)をかぶって戦う際に蒸れてのぼせるのを防ぐ目的で、武士は頭のてっぺんを剃り上げる月代(さかやき)にし、ちょんまげ姿になった。江戸時代には一般庶民にも広がった。

女性は平安時代から800年もの間、身分を問わず下げ髪(垂髪)であったが、江戸時代初期に結髪へと変化した。年頃を迎えた娘は「桃割れ」や「銀杏返(いちょうがえ)し」、正装には「島田髷(しまだまげ)」、人妻になると「丸髷(勝山髷)」にし、夫を失うと髪の半分を切って一緒に埋葬し、「切髪(きりかみ)」にして余生を送った。

また、武家では「島田髷」、「丸髷」が一般的で、奥女中は「御守殿髷(ごしゅでんまげ)」を結った。町方では「桃割れ」、「銀杏返し」、「島田髷」、「丸髷」と多彩であった。農民の女性たちは、祝言など特別な場合を除いては「引詰髪(ひっつめがみ)」(※1)で過ごした。

この時代、女性の髪型は、年齢や身分の象徴でもあったようだ。藩政時代の化粧品は、口や頬、爪などに使用する紅、白粉(おしろい)、黛(まゆずみ)、化粧水などであった。紅は、紅花を原料に粉末や固形にし紅皿に溶き指先ですくって使用した。白粉は古代から存在し、顔には粉末の粉白粉、襟には液状の水白粉を牡丹刷毛で塗り襟足の美しさを強調した。化粧水は、ヘチマの水を採取したものを使用した。また、既婚者はおはぐろで歯をそめる習慣があった。

履き物には、足袋、草履(わらじ)、足半(あしなか)(※2草鞋(ぞうり)、下駄、歯の高い足駄(あしだ)があり、冬には、雪駄(せった)、藁沓(わらぐつ)も使用した。農村では下駄類は少なく、もっぱら手製の藁製品を履いた。

※注釈の説明

  1. 引詰髪/後ろに束ねて結う髪型。
  2. 足半/かかと部分のない草履。

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2009.10.31

テレビなどで見かける江戸時代の「ファッション」。実は細かな規制や、独特の風習と装いがありました。

弘前藩の細かな規制

江戸時代は、士農工商と身分が明確に分かれており、そうした階級差を維持するために、衣服着用に関して厳しい規定があった。藩日記にも、衣服の種類や生地の統制などに関するおふれがたびたび登場する(別記参照)。

武士の礼装は、大紋(※1)・長袴(ながばかま)、熨斗目(のしめ)(※2)などで、火事などの非常時や旅行の際は、野袴(のばかま)(※3)をはいた。また、膝下の部分が細くなった裁付袴(たつつけばかま)もあった。

武家女性の礼装は、打掛(うちかけ)で、武家の子どもは男女共に振り袖を着用し、成人すると袖を詰めて小袖(着物)を着た。小袖、振袖共に季節に応じて3種類あり、それぞれ着用期間が定められていた。武家では無地が多く、柄物も小紋などで、町方に比べて地味であったようだ。また、高貴な色である紫をはじめ、紅、桃色が禁じられた時代もあったという。

町民・農民の装い

豪商などの有力町民に対しては、藩主に御目見(おめみえ)する時や祝言、節句などの特別な場合に限り、裃(かみしも)の着用が許された。

町民の衣服は、老人など例外を除いて、原則は木綿であった。『御用格』〈寛政本〉第13 町「衣類之部」寛政2年(1790)2月11日の条には、町人の妻子は絽(ろ)(※4)ではなく麻の帷子(かたびら)(※5)を着るよう、また、召使いに対しては羽織を禁ずるかわりに、冬の上張(うわっぱ)り(※6)には浴衣を着よと命じている。 こうした町民に対する規定は、その後の享和・文化・文政期(1800年代前期)にもたびたび見られる。

財政の窮乏に伴い藩士らが困窮していくのに対し、次第に財力をもった町人が華美な衣服を着用するのを律し、身分秩序を維持しようとしていることがわかる。女性用の帯は、江戸時代以前は細ひも帯を前結びにしていたが、幅広帯の後ろ結びに変化した。

だが、農民女性は女帯どころか木綿三尺(もめんさんじゃく)(※7)の使用さえ禁じられ、代わりに麻帯、ひも、たな(※8)を締めよと命じられた。

農民の衣服は、寛政2年以前は麻布の着用が原則で、それ以降は麻布と木綿の併用となった。天明8年(1788)から寛政元年(1789)までに記録した『奥民図彙』には、野良着に藍で染めたモンペ(※9)姿、素足に草鞋(わらじ)を履きケラを着た男性が描かれている。女性の野良着は刺しこぎんにモンペ。冬にはカッコロ(皮衣の詰まった呼び名)という獣皮を着た。

※注釈の説明

  1. 大紋/大型の家紋を5ヶ所につけた、上級武士の礼服
  2. 熨斗目/腰部に太く模様を織りだした着物。武士の礼装として裃の下に着用した。
  3. 野袴/裾に広く縁取りした袴。
  4. 絽/薄く透き通った絹織物。
  5. 帷子/単衣(ひとえ)の着物。
  6. 上張り/衣服が汚れないように上に着るもの。
  7. 木綿三尺/木綿製の、幅を細く短く仕立てた帯。
  8. たな/農民が帯の代わりに締めた、幅の狭い麻布。
  9. モンペ/袴の裾を足首のところでくくりつけるようにした形のももひき。

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2009.08.01

刺し子を現代のファッションに取り入れてみる。

刺し子の魅力

過酷で長い津軽の冬を生き抜くために、農家の女性たちの知恵と手技から生まれた「刺し子」。津軽地方では、麻布に刺した幾何学模様が特徴的な「こぎん刺し」が有名だが、年月を経るほどに糸が布に馴染み、着るたびに肌への優しさを感じさせる。

八嶋龍仙氏のコレクションの多くは藍染めの木綿に白糸の刺繍。浅葱色へと変色した風合いは実に趣深い。 元来、着古した着物や古布の端切れ等を幾重にも合わせて保温性を増し、糸を刺して補強した野良着ではあるが、「用途の美」、「生活の美」を象徴する津軽の衣文化は、今や世界的にも類をみない誇るべき希有なアートとなっている。

現代ファッションとのコラボレーション

テキスタイル・デザインの分野では若い世代、外国人にも注目視され、世界的な評価の気運が高まりつつある「BORO(ぼろ)」の世界。時代背景や価値観、用途は違っても、バランスよく組み合わせることでトレンド(流行)に乗せることができる。

例えばナチュラルな風合いのワンピースや、「藍」で同類のデニム素材でカジュアルに。サテンドレスやレザーブーツど、で高級感を演出するなど、「着こなす」というより、ちょっと肩の力を抜いたスタイリングで味わい深い魅力が生まれる。古手木綿を継ぎ足し、補強を繰り返しただけの野良着に、存在感あふれるモダンな表情を見ることができるのだ。古き良きものを懐に抱きながら、新しいものを貪欲に取り入れるという挑戦。いつの時代も必要不可欠なエコロジーの心である。

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八嶋龍仙 【刺し子提供】
旧岩木町出身。津軽伝統ねぷた絵師・日本画家。迫力ある線と色のにじみを多彩に使った鏡絵、慈愛あふれる見送り絵などねぷたの神髄を追い求めた作品が魅力。2010年11月29日より、京都府「聖護院」において個展を開催予定。
弘前こぎん研究所 【こぎん刺し提供】
こぎんの普及と製作・販売を中心に観光民芸品等の販売を行う。
  • 弘前市在府町61
  • 0172-32-0595
  • 9:00〜16:30 土・日曜、祝日休
インクルーズ 【コーディネイト・衣装協力】
個性的なカジュアルアイテムがそろうセレクトショップ。メンズ・レディースを展開。
Brunmel(ブランメル)【コーディネイト・衣装協力】
ワンランクアップのユーズドスタイルのショップ。クセありアイテムが人気。
  • 弘前市土手町107
  • 0172-35-5140
  • 11:00〜20:00 不定休
bed(ベッド)【ヘアメイク協力】
ニューヨークドライカットに定評のあるヘアサロン。大人の女性に「ファンキーさ」を取り入れたオリジナルスタイルが人気。
  • 弘前市取上3-8-51
  • 0172-37-1014
  • 10:00〜20:00 火曜休(第2または第4木曜は出張のため休業)
2009.08.01

津軽の秋最大の風物詩
津軽の奇祭と講

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10mの龍蛇体が練り歩く、奇祭「虫おくり」

「虫送り」は、病害虫の駆除と豊作祈願を目的とした農耕行事で全国各地でみられる。津軽地方では、かつてイナゴの大群によって西北地方の稲が全滅したことから始まったとされる。

『永禄日記』寛永4年(1627)6月の記事に、『稲虫がおびただしく、散在で虫祭りが行われ、藩でも天海僧正に7日間の祈祷を行わせた』とある。木彫りの龍型の頭に稲わらで編んだ胴体でつくられる虫は、大きい物では10m程。昔の稲作りは部落単位で行っていたため、部落入り口の高い木に虫を掲げ、村に悪疫が入らぬように祈願すると共に、五穀豊穣を願ったという。

毎年6月に、五所川原市内や岩木川河川敷を会場に開催される「奥津軽虫と火まつり」では、農業と深い関わりのある地域の伝統を継承するために西北の町村が集まり、それぞれの土地に伝わる伝統芸能を披露する。

祈りを灯す「ろうそく祭り」

弘前市相馬地区に約400年前から伝わる「沢田ろうそく祭り」は、ろうの流れ具合でその年の豊凶を占う伝統行事である。

旧暦1月15日の夕暮れ、集落の人たちは、高さ90メートルの岩山にある神明宮岩屋堂に参詣し、岩肌のくぼみに次々にろうそくを立てて行く。

雪の岩屋堂に無数のろうそくの炎がゆらめく様は、神秘的な光景である。

毎年、久渡寺で開催される「オシラ講」

「オシラサマ」は、一対の人形を御神体とする民間信仰で、北海道、東北、北関東地方などに広く伝わっている。農の神、漁の神、養蚕の神ともいわれ、その起源は定かではないが、青森県立郷土館には享保16年(1731)のオシラサマが所蔵されている。

御神体は桑の木や竹の棒でできており、これに「オセンダク」と呼ばれる端裂れを被せて祀る。

弘前市にある久渡寺では、毎年5月15・16日に「オシラ講」が開催される。これは、明治20年頃から始まったもので、祭壇に祀って祈祷を受けるとオシラサマの位が上がるという伝承もあり、家や村で祀っているオシラサマを持って参拝客が集まる。

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2009.08.01

津軽の秋最大の風物詩
津軽の奇祭と講

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「登山囃子」を奏で、「サイギサイギ」で登る「お山参詣」

岩木山は津軽のシンボルとして、また信仰の対象として古くから人々に崇められてきた。

旧暦8月1日に集団で岩木山に登り、ご来光を拝む伝統行事「お山参詣」は、五穀豊穣と家内安全を祈願して行われる津軽地域最大の秋祭り。

人々は、笛、太鼓、手平鉦(てびらがね)の登山囃子に合わせて、「サイギ、サイギ」と唱えながら岩木山神社へ向かい、供物や幟(のぼり)などを奉納する。

前日から山頂をめざし、早朝に山頂でご来光を拝むことを「朔日山(ついたちやま)かける」といって誇りにした。

その後は、下山囃子に合わせ、「よい山かげだ、バダラ、バダラよ」と踊りながら帰途に着く。

この行事がいつ頃から始まったかは定かではないが、江戸時代中期には7月25日に山開きを行い、8月1日から15日までが登山期間で、8月1日は藩主のみが登拝し、一般の人々は2日からと定められていた。

その後、明治に入ってから、一般の人たちも自由に登拝できるようになった。また、藩政時代は岩木山は女人禁制とされ、女性は途中の姥石までしか登ることができなかったが、明治5年(1872)に解禁となった。

天明8年(1788)から翌寛政元年(1789)までに記された『奥民図彙』には、50〜60人の人々が一団となり、「紅染(くれないぞめ)」の木綿を着て御幣を持ち、「サイゲサイゲロコントウシャ」と唱えながら登る様子が描かれている。

菅江真澄が見た「さんげさんげ」

菅江真澄は、『津軽の奥』寛政8年(1797)3月1日に、当時のお山参詣の様子を次のように記している。

『(八月初めのころは夜昼の区別なく、大ぜいの人が鼓笛を賑やかに声もどよめかして、五色の御幣を手ごとに持ちながら、「さんげさんげ」といっせいに唱えて登る声は、空にひびき谷にこだまするほどである。』(抜粋)

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2009.07.29

伝承される津軽の舞

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夏の盛りに江戸の2人を大館生まれの佐吉が弘前案内『奥州道中記』

『御国巡覧滑稽嘘尽戯』に遅れること5年、元治2年(1865)に『奥州道中記』が刊行された。遍四半半丸が著したこの作品は、夏の盛りに江戸生まれの弥次郎兵衛と北八の2人を大館生まれの佐吉が案内する趣向で、3人は羽州街道を北上して矢立峠から津軽領へ入り、碇ヶ関、大鰐、石川、小栗山、千年川とたどって弘前までの3泊4日の旅をする。

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旅をこよなく愛し、人に愛された菅江真澄

江戸時代後期、津軽をくまなく歩いた旅行者がいた。菅江真澄。博学者でもある彼は、訪れた各地の風習や習慣、伝承を書きとめ、写実的なスケッチ画を描いた。記録した旅行記は200冊を数え、それらは『菅江真澄遊覧記』と総称されている。 

『楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)』。天明5年(1785)、大間越より津軽領へ入った菅江真澄は五所川原を経て弘前で名月を眺め、松前に渡ろうと青森へ至るが、天明の飢饉のため断念し、引き返して矢立峠を越え秋田へ入った。

天明8年(1788)の『率土か浜つたひ(そとがはまづたい)』では狩場沢より津軽へ入り、津軽半島を東岸沿いに北進、三厩から舟に乗り松前へ渡っている。 寛政7年(1795)3月から寛政8年(1796)4月までの2ヵ年に渡る旅の草稿は、後人の手によって『津可呂の奥(がろのおく)』に纏められた。

また、寛政8年の秋からは西目屋村の暗門の滝を見るために、当時滞在していた深浦から往復した記録には『雪の母呂太奇』の名が付けられている。

菅江真澄が歩いたのは、整備され、宿場も整えられた安全な道ばかりではない。時には宿の当てもなく、時には雨や雪に降り込められる寄る辺ない旅を続ける菅江真澄を、人々は温かく迎えた。

雪降り積もる黒石市の高舘で宿を求めた菅江真澄に、家の主は自分の場所を与え、「こんな奥地で大雪に遭い、こんな粗末な家で寝ることになるとは可哀相だ」と菅江真澄の身上を我が事のように悲しんだ。

また、冬に暗門の滝を見に行こうとした菅江真澄に、川原平の家の主はカモシカの毛皮の服を貸し、無事に戻ってきた菅江真澄を歓迎している。

旅行記にはこうした記述が散見し、その土地の人と同じ目線であろうとする菅江真澄と、実直な彼の人柄に好感を抱いて交流を深める人々の様子が浮かび上がってくる。

藩政時代に記録された津軽

実際に津軽を訪れた人々もまた、当時の津軽の情景を多く記録していた。

宝暦8年(1758)、津軽を訪れた上方の商人が著した『津軽見聞記(つがるけんもんき)』は、商人が綴っただけあって名所の他、物価や名物、その値段が細かく記されている。

また、旅行は若者のだけの特権ではない。南部藩士・菊池成章は65歳という年齢ながらも諸国巡りの旅行に出立した。彼の旅行記『伊紀農松原(いきのまつばら)』は、短いながらも高い教養が感じられる記述が多い。

挿絵3

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2009.07.26

「津軽神楽」と夜宮

高照霊社での奉納が始まりといわれる津軽神楽

「津軽神楽」は、神社の祭礼などに奉納される社家神楽で、舞も楽も神官のみが行う大変格式が高い神事芸能である。 4代藩主信政は、吉川惟足に入門して神道や国学を学び、宝永7年(1710)に没すると、岩木山麓に高岡霊社として祀られた。

2年後の正徳2年(1712)、藤崎町の堰八豊後安隆(せきはちぶんごやすたか)は江戸の鏑木大蔵(かぶらきおおくら)や京都などで伝習を受け、正徳4年(1714)に帰藩。東照宮の山辺丹後(やまべたんご)と相談し神職を指導、同年7月高照霊社(現・高照神社)の祭典に奉納したのが津軽神楽のはじまりといわれている。

囃子に使う楽器は、太鼓、小太鼓、笛、手平がね。現在、神入舞・宝剣・磯浪(いそら)・千歳(せんざい)・榊葉(さかきば)・弓立(ゆだて)・天王(てんのう)・朝倉・湯均舞(ゆならしまい)・御獅子(おしし)・四家舞(しかのまい)の、11演目が伝えられている。

平川市の猿賀神社では、今年5月に崇敬会大祭が催され、本殿の完成を祝い約30年ぶりに四家舞が披露された。四家は士農工商をあらわし、殿中の慶事や神社の落成行事の際に行われる真剣を使った古式ゆかしい舞である。

津軽神楽保存会会長で、猿賀神社や弘前市品川町の胸肩神社などの宮司を務める山谷敬さんは、「神事的要素が強く、弘前藩の殿様ゆかりの津軽神楽を大事に守っていきたい。また、今年は『四家舞』を復活させたこともあり、今後は国の重要無形民俗文化財に指定されるよう働きかけていきたい」と語っている。

高照神社の宝物殿には、正徳4年(1714)7月に今井源右衛門が作成した『於高岡御祭礼御規式帳』が保管されており、津軽神楽についての記載もある。また、藩政時代の神楽面も展示しており、津軽地方に伝わる神事芸能の貴重な資料となっている。

夜宮などで見学できる津軽神楽

津軽では5〜7月に各神社で夜宮(宵宮)が行われ、夏の風物詩となっている。藩政時代には、一つの部落ができるとさっそくお宮をつくり、産土神(うぶすな)を祀ったという。

祭りは神前・境内を浄め、神官・氏子が精進して神迎えをする行事で、夜宮は暗闇のなかで神を迎える前夜祭であった。

津軽神楽は、津軽地方の総神社数約400社のうち、岩木山神社、猿賀神社、弘前八幡宮、胸肩神社ほか、各神社の夜宮などで行っており、誰でも見学できる。その他、夜宮以外のお祭りでも不定期に行っている。

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2009.07.23

1682年に始まった
弘前城下の「山(やま)」祭り。

松前や秋田からも見物客が訪れ た、弘前八幡宮例大祭

「弘前八幡宮」は、前藩の総鎮守として崇拝されてきた。前城築城にあたり、門「丑寅」の方角に城の守護神として、慶長7年(1612)に創建された。

弘前八幡宮祭礼は、主が参勤交代を終えて無事に帰城した喜びを城下の人々と分かち合いたいという目的で、天和2年(1682)8月15日、代藩主信政が初めて行った。


その祭礼の時に、各町会の若衆によって初めて山車(だし)が繰り出された。運行は藩主導で行われ、費用は藩費で賄った。

その盛大さは他に例がなく、北海道の松前や秋田からも数万人の見物客が押し寄せたという。

町内ごとの「山」は北門より入城、城内を練り歩く

山車行列は田町の八幡宮を出て弘前城の北門から入り、城内を踊りながら練り歩いたという。その様子を、信政は二の丸辰巳の矢倉(やぐら)で、信政の生母・久祥院(きゅうしょういん)は二の丸の丑寅の矢倉で、共にご馳走を食べて見学をしている。

山車の題材は各町会の歴史や特徴をいかしており能や謡曲、故事来歴などを引用して表現している。また、京都の祇園祭、大阪の天満宮、江戸の三社祭の影響を受けた、人形を中心とした高欄付きの装飾は、後の弘前組ねぷたに影響を与えたともいわれている。

弘前市立観光館「山車展示館」では、現存する7つの山車を保存・展示している。人形や衣装のなかには、300年近く前の享保年間のものもあり、現在では技術的に再現不可能なものも多く、貴重な文化遺産となっている。

現在、弘前八幡宮例大祭は8月1日で、津軽神楽の奉納などが前夜祭から行われる。

津軽各地の八幡宮例大祭

鰺ケ沢町の「白八幡宮(しろはちまんぐう)」は、藩政時代、弘前八幡宮・浪岡八幡宮と共に"津軽三八幡宮"と呼ばれた。西廻り航路の重要な地位にあった鰺ケ沢港の鎮守として、歴代藩主も崇敬したという。

延宝8年(1680)に始まった「白八幡宮大祭」は、一大絵巻のように勇壮華麗な伝統行事である。御神輿渡御(おみこしとぎょ)行列では、白八幡宮と白鳥大明神(しらとりだいみょうじん)の二柱の御神輿を中心に、古式ゆかしい衣装をまとった約300人の人々が連なり、その後に各町会の山車が続く。

神輿は、貞享2年(1685年)、鰺ケ沢町中の寄進によるもの。現在、祭りは4年に1度の開催だが今年は開催年にあたり、8月14日〜16日に行われる。

青森市浪岡は、津軽平野のなかでも最も早く開かれた土地で、室町時代に南朝の名門・北畠氏の一族が城を築いて栄えた。「浪岡八幡宮」は、この城跡の入り口にあり、城の守護神であった。

津軽為信によって城が滅ぼされた後も、藩は八幡宮を保護し、3代藩主信義が改築・補修を行った。毎年8月15日の浪岡八幡宮例大祭をはさんで、「浪岡北畠まつり」が開催され、御神輿渡御、ねぶた運行、北畠武者行列などで賑わう。

挿絵1

挿絵2

挿絵3

2009.07.20

弘前ねぷたの変遷

ねぷたの起源「考」・移変り

ねぷたの起源には諸説あり、「坂上田村麻呂が、蝦夷(えぞ)をおびき出すために燈籠を用いた」、「為信が京都の盂蘭盆会(うらぼんえ)に大燈籠を出した」などの言い伝えがある。

しかし、現在では、夏の農作業の妨げとなる眠気や怠け心などを水に流す「眠り流し」の農民行事や、七夕祭の松明(たいまつ)流し、精霊流し、盆燈籠などさまざまな習俗が独特の変遷をたどりながら、ねぷたの原型ができたのではないかという説が有力となっている。

ねぷたが初めて記録に登場するのは、享保7年(1722)の『御国日記』である。5代藩主信寿(のぶひさ)が、紺屋町の織座(おりざ)で「祢ふた」を高覧したとある。

弘前藩江戸定府の藩士・比良野貞彦(ひらのさだひこ)が著した『奥民図彙』の「子(ね)ムタ祭之図」天明8年(1788)には、四角形や長方形の燈籠が描かれているが、時代と共にねぷたの形も変化したようだ。

文化・文政期に入ると、経済力を持った町人が増え、町人文化が華開いていく。弘前藩は十万石に昇格し、天守閣も再建されるなど、城下にも華やいだムードが満ちていたと思われる。そうした背景もあってか、この頃から組(人形)ねぷたが出現し、大型化が進んだようだ。

その後、明治維新、廃藩置県といった激動期を経て、「開き」の入った扇燈籠が作られるようになった。城下町の気風を反映した勇壮な武者絵が祭りムードを盛り上げたこともあり、以来、扇ねぷたが主流となっていく。

大正3年(1914)には、市内で初めて合同運行が開催された。昭和の中頃になるとバッテリーが普及し、照明はろうそくから電気に変わり、次第に現在の姿に定着したようだ。

「弘前ねぷたまつり」は、8月1日に開幕。今年は、過去最多となる82台のねぷたが出陣し、城下町を練り歩く。

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