弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
不定期に更新していく、
Web版よろず生活図鑑です。
紙面を見逃した方も、初めて読む方も、
分かりやすい内容となっています。

食ノ編

2009.07.31

現在も馴染みの多い藩政時代の料理。3

「金木屋」の接待料理と、津軽の郷土料理

安政2年(1855)1月18日には、
下町同心や庄屋を招いて次のような料理で
もてなしている。
「御酒肴五種吸い物一度夜食平皿、手製目巻、
到来の平目煮付け、
鯡の椛焼小串伽羅ふき〆砂鉢積合、なまこ丼、
〆貝丼、到来鯖鮓、鮭の鮓丼、
かすべ同積入いも初茸こんにゃく大平〆五種、
外にあま漬け丼、きぬた付金頭初茸吸い物
御皿鯡御平かすべ青菜こんにゃく初茸〆」。
同日記には調理法などが記載されていないことや、
当時と現代の食材の違いなどから、
献立名を見ても想像がつかない料理もあった。
しかし、
あらためて器に盛りつけた料理を眺めてみると、
藩政時代の料理の多くは
今も馴染み深いものが多く、
津軽の地で受け継がれてきたことがわかる。
金木屋のもてなし
2009.07.31

現在も馴染みの多い藩政時代の料理。2

豪商「金木屋」のまかない料理

江戸時代中期以降、藩財政の窮乏により
次第に生活苦にあえぐ武士に対し、
豪商といわれる有力町人は、
逆に裕福な暮らしぶりとなっていく。
山一金木屋2代・武田又三郎(俳号・玉之)は、
一代で藩の御用達になった富商で、
文化元年(1804)には亀甲町に質店を開店、
同2年には賀田に家を買い求め造酒業を開いた。
3代目・又三郎(俳号・敬之)が書いた
『金木屋日記』は、
天保8年(1837)から慶応元年(1865)に
至る日記で、当時の暮らしを知るうえで
貴重なものとなっている。
安政3年(1856)6月26日の同日記には、
「今日別荘柱立致し候」とあり、
大工たちをねぎらって料理を振る舞っている。
「昼過ぎ一杯呑ませ候、砂鉢玉子巻、かすべ
するめかんな懸け油煮、干し鱈さけ田夫一丼、
鯨木瓜なます一丼、吸い物代わり賄鯨にひる〆」と
ある。ちなみに、初代・吉兵衛が伝え残した
「山一質店自分之掟」には、
「朔日、十日、廿日には其の時の下直なる
生肴見合わせ相い調食べさせ申す事」
「平生は汁、漬物一しきの膳菜に限り申すべき事」
とあり、一家はこれに忠実に
10日に一度しか生魚を食べないように
倹約して暮らしていたようだ。
そうしたことからみれば、
この日の献立は非常に豪華なものだったといえる。
金木屋のまかない
2009.07.31

「殿様の料理人」 郷土食研究家・木村守克

4代藩主信政の時代、
元禄10年(1697)の分限帳によると、
御台所には御台所頭以下料理人や食器具を
管理する人、帳付けの人や小者など
81人の人たちが働いていた。
料理人の身分には格付けがあって、
殿様の料理を作る人は御料理人と呼ばれていた。
その下が下(並)料理人で、
さらにその下には助手のような
板の間の者という人たちがいた。
他に仕出しの食事を作る
軽い身分の仕出し料理人(賄人)
といわれる人たちもいた。
この時には御料理人は4人、
下料理人は8人、板の間の者は6人がいた。
御台所は忙しかったようだ。
殿様の食事はもちろんのこと、
出仕の人たちの食事も作った。
そして度々の宴会、儀式や行事の料理作り、
江戸藩邸への食料の供給、
幕府やその要人への月々の音物(贈物)の調製、
魚鳥を始め様々な食品の加工、
貯蔵など多くの仕事があった。
御台所の御料理人は
優れた技量の人たちであったようだ。
信政は幾人もの御料理人の
鶴の包丁式というものを高覧している。
この儀式は誰でも行えるものではなく、
その料理流派の許された者だけが
行えるものといわれる。
これは鶴を包丁刀と真名箸で
瑞祥の形に切り並べていくものである。
その1人に小川金太夫という料理人がいたが、
日頃から料理に熱心であると褒美を与えている。
ところが2年後には料理の出来が良くないと
殿様に叱られ、
翌年には「日頃勤め方御意に入り申さず」と
江戸で解雇されている。
他方、石火屋次五右衛門という人は、
3代信義の時から60年にわたって
御料理役を勤めてきたベテランで、
推定では70歳を越えていたのではないかと
思われる。
信政に隠居を認められ、
今の年金のような5人扶持(玄米で1日2升5合)を
与えられ、さらに長男がその後を相続している。
料理人にも殿様に生かされた人と
そうでない人があったようだ。
2009.07.31

現在も馴染みの多い藩政時代の料理。1

質素だった藩士の日常食

弘前藩士の食生活については、
日常の出来事を記録した日記のようなものが
現存しないため、明らかなことはわかっていない。
中級・下級武士の家計は慢性的に赤字で、
そのため屋敷の裏庭を畑にするなど、
自給自足をはかる場合も多かったようだ。
幕末になると生活はさらに困窮さを増し、
質入れや内職をして麦や粟を買い、
かろうじて生活を立てたという
(『津軽藩政時代の生活』黒滝十二郎 北方新社)。
藩政時代初期の明暦期〜延宝期(1655〜81)には、
「朝食は黒米(玄米)と鏡汁
--実を入れない味噌汁だけで済ました。
夜食では、
ぐつ煮--味噌の熟し豆腐に花鰹をかけて、
香の物を添えるのがご馳走だった。
干魚や焼魚があっても一汁一菜を守った。
大豆飯、小豆飯もよく炊いたが、祝い事ではなく、
米の節約が目的だった」
(『女人津軽史』山上笙介/北の街社)
というように、
かなり質素な食生活であったことがうかがえる。
『津軽家御定書』
(東京大学出版会刊/国立史料館蔵)
寛文8年(1668)3月12日の条で、
日常の食事は一汁三菜と規定している。
これは、
対象が武士か町人かは
明確ではないものの、
ご飯と汁のほかにおかずは漬け物を含めて
3品ということになる。
『日記』享保9年(1724)10月15日の条には、
「常々食は一汁一菜」と記されている。
中級武士の台所

武士の日常の食事

上級武士の台所

食材

2009.07.30

三百年以上前から栽培されてい た大鰐温泉もやし2

受け継がれて行く、大鰐温泉もやし
時代と共に姿を消した大鰐菜園所だが、
今もなお当時とほぼ変わらぬ栽培方法で
作られているのが、「大鰐温泉もやし」である。
豆もやしとそばもやしの2種類があり、
町内に6軒しかいない生産者たちが
伝統の味を守っている。
「大鰐もやし組合」組合長の
藤田良一さん(75)のお宅を訪ね、
奥さんのキセさん(68)に作業の様子を
見せていただいた。
もやしに光があたると光合成によって
変色してしまうため、
作業小屋の中は昼間でも真っ暗。
作業は、深夜に行うという。
「サワ」と呼ばれる床の中に温泉水をかけ、
もやしの種(豆もやしは「小八豆」、
そばもやしは「階上早生」)を蒔く。
4日ほどで発芽するので、再び温泉水をかける。
1週間後、収穫時期を迎えたら掘り上げたもやしを
ぬるめの温泉水で洗い、
すぐに温泉を冷ました水でしめて出荷する。
「一番大変なのは温度管理。
化学肥料や農薬、水道水を使わず、
温泉の力だけで栽培する方法は
昔から全く変わらない」と、キセさん。
平成17年(2005)、
農業後継者育成のために町が公募し、
もやし栽培を始めた山崎光司さん(35)、
綾子さん(31)夫妻の指導にもあたっており、
藩政時代から続く技術は
次の世代へと受け継がれて行く。














2009.07.26

三百年以上前から栽培されてい た大鰐温泉もやし1

津軽4代藩主信政の頃、
大鰐には藩の御台所「大鰐菜園所」があり、
この頃からすでに温泉熱を利用した
促成栽培が行われていた。
『藩日記』によると、
大鰐菜園所からは多くの初物が長年にわたって
献上されていたことがわかる。
季節に先駆けて届けられる作物は
歴代藩主たちを喜ばせ、
時には飛脚によって遠く江戸屋敷まで
運ばれることもあった。

信政の母「久祥院」も愛した、大鰐菜園所

この菜園所を大変気に入っていたのは、
3代藩主信義の側室で、
信政の生母「久祥院」である。
久祥院は、書や和歌、琴、活け花、
お茶などの心得にも優れた才色兼備の女性で、
衣服や身の回りの調度品に
菊の模様を好んで用いたことから
「菊御前」とも呼ばれた。
信政は久祥院をことのほか敬愛し、
初物は必ず久祥院に差し上げたという。
『藩日記』には、
延宝5年(1677)にも七草粥の行事が見られるが、
元禄5年(1692)には、
大鰐菜園所から久祥院に温泉熱で
栽培した「七草」が届けられている。
献上の品は、夏菜、葉にら、志の葉、芹、ふきのとう、
青菜、もやしの7種類であった。
2009.07.23

「元禄二年、初鱈は外ヶ浜、 二番鱈が青森、三番鱈は鰺ヶ沢」2

献上タラのお披露目

献上タラは長さ2尺(約60センチ)、
幅5寸(約15センチ)、
老中や大名などに贈られるタラも長さが
1尺7寸(約50センチ)から1尺5寸(約45センチ)
とされていたようである。
それは決して大きなものではなかった。
もし大きなタラを献上して慣例となった場合、
不漁の場合に困るからだという。
献上のタラは役人を通して城へ届けられると、
「御献上鱈」として丁寧に扱われ、
藩の重役など、
ごく限られた者のみが出入りを許される
「山吹の間」に飾られた。
ここで家老、御用人、大目付などが見分し、
藩主もご覧になった。
タラの塩加減については、
『御台所年中御本當并仕立物帳』によると、
一、塩 三合程
但し御献上鱈一本、漬水 漬塩とも
一、同 二升程 但し同箱詰めの節の詰め塩と、
かなりの塩辛さだったことがわかる。

献上タラの搬送

藩は、献上タラの搬送に非常に気を遣っていた。
元禄13年(1700)になると、
江戸まで馬を使わず
「歩行持ち」で運ばれるようになった。
これは万が一、馬が倒れて箱が壊れ、
タラに傷がつくのを防ぐためだという。
元禄元年(1688)には、
タラは江戸まで12日かかって運ばれたようだ。
参勤交代では18日を要したことや、
至急の用件には早道の者(忍者)がひた走って、
江戸まで8日かかったということからも、
献上タラはだいぶ早く江戸へ運ばれたようだ。
宝永4年(1707)に、江戸へ送られたタラは163本。
内訳は、
御献上タラ...5本/西ノ御丸...同5本
御音物(ごいんもつ)中タラ...133本
御料理タラ...20本
(内5本無塩、5本薄塩、10本辛塩)
御音物とは贈り物のことで、
中タラは老中や大名などに贈られた。
御料理タラは江戸藩邸の台所用になるもの。
無塩ものから塩を効かせたものまで、
塩加減をいろいろ工夫していたことがうかがえる。


タラを使った郷土料理

県内の浜どころでは、
単にタラといえば「マダラ」のことで、
スケトウダラは「スケソ」あるいは
「スケソウ」で通っている。
タラは捨てるところのない経済的な魚で、
皮から骨から目玉まで、
余すところなく調理された。

鱈の昆布締めタラの煮付け
タラの子和え

タツ鍋
2009.07.20

「元禄二年、初鱈は外ヶ浜、 二番鱈が青森、三番鱈は鰺ヶ沢」1

真鱈
「初タラ」は藩主のもとへ

タラが献上品として江戸などへ
送られるようになった時期については、
詳しいことはわかっていない。
寛文5年(1665)の『藩日記』には、
「例年の如くご進物の鱈」、
寛文12年(1672)には「御献上の鱈」と
記されていることから、
すでにこの頃から始まっていたのだろうか。
10月から11月初めに上がった初タラは、
まず藩主に届けられるのが習わしであった。
藩主が江戸にいる時には、江戸まで届けられた。
献上のタラは、その後に捕れたもので、貞享3年
(1686)には11月11日、
貞享4年(1687)には12月12日、
元禄元年(1688)には11月30日に
江戸へ運ばれている。
初タラと時期が違うのは、
献上にふさわしいタラを
選択していたからだろうか。
『本朝食鑑』(元禄8年・1695に江戸で出版された
食物の百科事典)では、以下のように記している。
「いま時は官家がこれを珍賞するので、
北州および奥羽の太守、
刺史(国守の唐名)が争って献上している。」
津軽領内で最も早く
タラが捕れるのは平舘、蟹田。
元禄2年(1689)10月23日、24日の日記によると、
この年の初鱈は外ヶ浜、
二番鱈が青森、三番鱈は鰺ヶ沢となっている。

つがろのつと

過酷なタラ漁

菅江真澄の旅行記『つがろのつと』に
(菅江真澄全集/未来社)に、
当時のタラ漁の様子が書かれている。
「津軽郡にては、ひんがし(東)は
浦田(平内町)の浜、
藻浦(平内町)の洋(なだ)よりはじめ、
西は根岸(平館町)の浦、
平舘のなだのあたりまで網せり。」
「そのころほひは雪のいやふれば、
海もあれにあれてけれど、
あらき潮迫に、ももふね、ちふね、
木の葉の吹ちりたるやうにこぎみだれ、
しほにぬれてしみ氷るたもとに雪のふりかかり、
ふぶきにまみれ、身に冴え通るあら汐の、
からきおもひをおもいやるべし。」
菅江真澄は、タラ漁が身も凍る吹雪にまみれ、
荒波の中で行われることに、
漁師たちの命がけの辛さを思いやっている。

記事カテゴリー


バックナンバー


ダウンロード

陸奥新報紙面で掲載した内容を、プリントアウトして読みたい方に、A4サイズにレイアウトしたPDFがダウンロードできます。


参考文献・協力

弘前藩よろず生活図鑑を制作するにあたり、ご協力いただいた方々や参考文献・資料一覧はこちらから。


弘前藩よろず生活図鑑は


編集部が製作しています。