弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
不定期に更新していく、
Web版よろず生活図鑑です。
紙面を見逃した方も、初めて読む方も、
分かりやすい内容となっています。

暖房と防寒編

2010.11.05

防寒の衣。

最高の防寒着「毛皮」

藩政時代の津軽の風俗を写した図録ともいうべき『奥民図彙(おうみんずい)』。その中に、「カッコロ」と呼ばれる毛皮が描かれている。様々ある毛皮の中でも「上品トス」とされた犬皮は、幕命で松前に派兵した際にも防寒具として使われていた。いったん吹雪に遭えば命を落としかねない極寒の地。軽く暖かな毛皮が、どれほど多くの人々の命を救ったことだろう。

挿絵1

挿絵2

挿絵3

「藁」という存在感

深い雪を踏みしめるのは、編み目も美しい「ツマゴ」。背に負うのはほどよく風を通す「ケラ」。家の中で子供が眠る「エンツコ」にはたくさんの藁、ボロ布が敷き詰められてふかふかだ。夜には綿の代わりに藁しびを詰めた布団をかぶり、それすら無い人々は編んだ藁の中に潜り込む。

近年に至るまで日常的に使われていた藁の民具。利点を引きだすその技術は、藁を知り尽くした人々の知恵が生み出し、彼らの生活を支えた。

挿絵4

挿絵5

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「布」が紡ぐ絆と命

荒い目を塞ぐように、貴重な木綿糸で一針ひと針刺繍された「こぎん」。くたびれ柔らかくなった布を継ぎ合わせた「ボド」。上着や下着、麻蚊帳にいたるまで、使い古したボロ布を幾重にも重ねた夜着「ドンジャ」の中には麻糸を取る際に出るクズ麻が詰められる。 

「一寸四方、小豆を包む大きさがあったら大事にせよ」。かつて、そんな言葉があった。寒さのため綿花の栽培が叶わなかった津軽。温かく柔らかな木綿は明治の時代を迎えてもなお、貴重品だった。糸となり、布となり、衣となり、また姿を変える。世代を超え、幾人もの人々が包まれ、守られる。生命を包み込んだ温かく柔らかな美しさをもつ布たちは今、「BORO」という名の芸術にまで昇華している。

挿絵7

挿絵8

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2010.11.04

囲炉裏で料理

挿絵1

鍋料理、焼き物の調理場

弘前城亀甲門向かいにある「石場家」は、弘前藩出入りの商家として知られる。建築年代は江戸後期と推定され、こみせに面した蔀(しとみ)、太い梁(はり)に風格と年輪が刻まれている。囲炉裏は台所と常居(じょい)の2ケ所にあるが、常居の囲炉裏は、いわば家長専属の暖房設備。家長が横座に座り、藩からの来客や町の旦那衆など限られた人のみが通されたという。常居の囲炉裏は木炭のみを使い、調理は行わなかった。一方、台所の囲炉裏は女性や子ども用で、薪と木炭を使い分け、あらゆる煮炊きを行なった。 

18代当主・石場清兵衛さんは、「カギノハナ」(自在鉤)を指差して語る。「ここの縄が炭化して弱くなり、吊している鍋が囲炉裏に落下することがあるんです。灰が舞うことから『灰神楽(はいかぐら)』と言われる現象ですね。でも、縄のすごい所は、ねじれてほどけながらゆっくりと切れること。だから、鍋もするすると下がって中味もこぼれない。これが単線だとそうはいかないでしょう」。囲炉裏のまわりには、先人の知恵と文化が凝縮されている。

鍋料理以外にも、「ワタシ」という足つきの網の上でキノコや餅などを焼いたり、魚を串焼きにし、「ベンケイ」(弁慶)に刺して乾燥・保存するなど、炎と道具を活用し実に多彩な調理を行った。この他、農村・漁村部では囲炉裏の上に「火棚」を組み、布海苔などさまざまな食料の乾燥にも用いた。

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挿絵4

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2010.11.03

スポット暖房が主流だった江戸時代

江戸では武士階級や裕福な町民などを中心に、火鉢や行火(あんか)、炬燵(こたつ)などが使われた。いずれも木炭を使うため煙や煤(すす)が発生せず、また可動式であるため重宝した。隙間の多い日本家屋では、室内全体を暖めるのは非常に効率が悪く、経費もかさむため、頭寒足熱のスポット暖房は理にかなっていたのだろう。

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10月初めの亥の日は「炬燵開き」

火鉢は、銅、鉄、真鍮などの金属製や木製、円形の陶製品など材料も形もさまざまで、灰に木炭を入れて使用した。長火鉢は火鉢と家具を合体したもので、鉄瓶でお湯を沸かす、お燗をつける、金網で餅を焼くという以外にも、引き出しにタバコを入れられるなど多機能で、どことなく粋な雰囲気も漂う。行火は、瓦製の火入れを焼き物や石・木製の箱の中に入れ、直接手足を当てて暖める道具。燃料は木炭や炭団(たどん)、後には豆炭が使われ、寝る時は布団に入れて足もとを暖めた。

炬燵には、囲炉裏の上に櫓(やぐら)を置き布団を掛けて使う「掘り炬燵」と、行火などに布団を掛けた「置き炬燵」があった。江戸では武家屋敷の「炬燵開き」は旧暦の10月初めの亥の日、町屋の一般庶民は次の亥の日という習わしがあった。亥は陰陽五行説では水を表すことから、火難を逃れるとされた。

湯たんぽは、もともと陶製が多かったが、昭和初め頃になると金属製も登場する。使用した湯は、翌朝には洗顔などに再利用した。

カイロは、囲炉裏などで温めた石を布に包み、懐に入れて体を暖めた「温石(おんじゃく)」が始まり。近代になると懐炉灰や白金懐炉なども発明され、最近では酸化熱を利用した使い捨てカイロが主流となった。

挿絵6

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2010.11.02

山越え、川を下り、土を掘って 燃料確保に苦労した時代

山越え、川を下り、土を掘って 燃料確保に苦労した時代

江戸時代、燃料として最も多く使われたのは薪と木炭である。西目屋村砂子瀬(すなこせ)地区では、夏に切り倒した木を冬にそりで岩木川の川岸まで運んでおき、春の雪どけ水を利用して川に木を流す「ハルキナガシ」をした。弘前の樋の口には土場が設けられ、ここまで流れ着くのに半月かかった。昭和初期の頃、村から弘前まで運んだ薪は7200タナ(1タナは薪を約縦180㎝、横180㎝に積み上げた量積)。これが街の人々の一年間の燃料になった。

炭には「白炭」と「黒炭」があるが、津軽では白炭の製炭が主流だった。砂子瀬地区では近年まで炭焼きが行われ、重い炭俵を背負って12㎞の山道を下り田代地区で米に替えるのは女性の仕事である。モンペ姿の「目屋人形」は、そうした女性をモデルに作られた。

挿絵1

泥炭燃料「サルケ」

山が遠く薪が不足しがちな西津軽郡の新田地帯では、葦などが堆積した泥炭層から掘った「サルケ」を燃料に活用した。 つがる市木造地区に住む須藤菊江さん(76歳)は、「湿地帯を50〜70㎝ほど掘って40㎝角の正方形に切り、土手で乾かした。10〜20日間ほどで乾燥するので家の裏に積み上げて保管し、ひと冬使った。昭和30年代初めまでは囲炉裏や薪ストーブに重宝したが、部屋中煙で真っ黒になるので大変だった。明治40年生まれの姑は、自ら馬に乗って近隣に売り歩き、結構な副収入になったようだ」と、当時を振り返る。

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「薪」や「ペレット」を燃料にしたストーブが人気。

揺らめく炎を囲んでの家族団らん。かつての光景が甦るかもしれない。「最後まで大切に使い尽くす」。エコが当たり前だった時代の人々の想いが息づく暖房器具がある。廃材や樹皮など、木質バイオマスと呼ばれる資源を利用した、薪ストーブやペレットストーブだ。廃棄され、或いは山にうち棄てられていた資源を活用し、森林保護や活性化に繋げようとする試みは全国各地で行われている。

2010.11.01

暖房と防寒の知恵

人々の暮らしの真ん中にあった囲炉裏

縄文時代の竪穴式住居跡にも見られるように、「囲炉裏」は古くから私たちの生活に深い関わりをもっていた。 家族が集まって暖をとったり煮炊きをしたり、夜なべ仕事のかたわらでは子どもたちがお年寄りから昔話を聞いたりと、囲炉裏は温かな交流の場でもあった。

津軽地方では、「シブド」、「シボド」と呼ばれ、昭和の初め~中頃まではどこの家庭でも見られた。囲炉裏を囲む時は、奥を背にして主人の座る「横座」(ヨコジャ)、横座から見て台所に近い席は主婦が座る「嬶座」(カカザ)、その向かいは来客席の「客座・男座」、横座の向かいは「キシモト」で嫁や次男・三男・雇い人が座る場所と、立場によって席が決まっており、家族内の序列秩序を再確認する機能も備えていたようだ。

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挿絵2

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挿絵4

挿絵5


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