弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
不定期に更新していく、
Web版よろず生活図鑑です。
紙面を見逃した方も、初めて読む方も、
分かりやすい内容となっています。

行楽編

2011.06.04

災害の見本市のような 江戸時代

復興への道しるべ

飢饉、火山噴火、火事、大地震。 江戸時代は「災害の見本市」と 言われるほど多くの災害に見舞われた。 なかでも安政年間は激動の時代であった。 安政元年(1854)11月4日に東海地震が、 翌5日には南海地震が起こり、 大阪では大津波が発生し 数千人の死者が出た。 さらに翌年の安政2年(1855)には、 江戸で「安政の大地震」が起こり 数千人が亡くなるという災害続きとなった。 安政3年(1856)発行の 『安政見聞誌(あんせいけんもんし)』 (全3冊)は、 地震の克明な記録と共に挿話や 瓦版などが収録されたルポルタージュ。 編者は仮名垣魯文(かながきろぶん)、 画は江戸時代末期を代表する 浮世絵師の一人・一勇斎国芳で、 地震大国と呼ばれる日本が、 震災と復興を繰り返して来た 歴史の一端を垣間見ることができる。

  • 『安政江戸地震』野口武彦・著(ちくま新書・発行)
  • 『実録大江戸壊滅の日』荒川秀俊・著(教育社・発行)
  • 『大江戸ものしり図鑑』花咲一男・監修(主婦と生活社・発行)
  • 立教大学図書館HPより

弘前藩の防災(例)

「山を大切にするは萬民性命を 保つ事の元なれば」

(『津軽信政公事績』より) 火を得るにも家屋を建てるにも木は 必要であり、 また、山林の荒廃は水源を絶つことに繋がる。 4代藩主・津軽信政の時代から藩は、 先の信政公の意を汲むべき 山林の保護や植林に力を注いだ。 西からの強風と砂塵から人々の生活を守る 屏風山への植林は信政の治世に始まり、 以来200年以上に渡り行われた。

挿絵1

生命を守り津軽を発展させた治水

一瞬にして命も家屋も飲み込む洪水への 対策は領民の生命を守り 新田を開発する上で欠かせない事業だった。 寛文7年(1667)には道路の幅や河川との 距離を定める令が出され、 現在見られるように、 川原には柳が植えられた。 氾濫を繰り返す岩木川への 大々的工事は延宝2年(1674)に施されて以降、 補修や堤の普請などたびたび手が 加えられる事となる。

挿絵2

2011.06.03

涼を愉しむ行楽

津軽のお殿様も楽しんだ花火
「たまや~、かぎや~」の 掛け声と、花火の歴史

万治2年(1659)、 大和(奈良)出身の弥兵衛が火薬を おもちゃの花火にすることに成功し、 日本橋に「鍵屋」を構えた。 弥兵衛が考案した花火は、 葦などの茎に火薬を詰めたロケット花火で、 江戸で大流行。 弥兵衛は一躍花火の第一人者になった。

文化7年(1810)、 鍵屋の番頭が暖簾分けを許され、「玉屋」を創業。 夜空を舞台に繰り広げられる 2大ブランドの競演に、 観客は「たまや~、かぎや~」と歓声を上げながら、 江戸の夜空に咲く花を愛でた。

慰霊水神祭から始まった、江戸の花火大会

8代将軍吉宗の時代、 疫病による死者の慰霊と悪病退散祈願のため、 享保18年(1733)、隅田川で水神祭を行った。 この時に打ち上げた花火が好評で、 以来、 隅田川が川開きになる旧暦5月28日から 3ヶ月間、連日花火を打ち上げるようになった。 川岸には食べ物屋、川面には屋形船がひしめき、 両国橋の上は鈴なりの見物客で賑わったという。 とはいえ、当時の花火はオレンジ1色で、 現在のように円形に花開いたり、 カラフルな花火が誕生するのは、 化学薬品の技術が進む明治以降のことである。

千年山で開かれた、お殿様の花火観賞会

津軽における花火の最も古い記録は、 『弘前藩庁日記』寛文12年(1672)、 4代藩主・信政が夕食後に内馬場で家臣たちと 花火を楽しんだというもの。

元禄7年(1694)7月13日の記事には、 信政が三男・与一と共に、 藩の行楽地・千年山に出かけ、 茶の湯と花火見物を楽しんだ記録がある。 何種類もの花火の名前と共に、 当日の献立や御菓子の記述もある。 この日は家老、医者、料理人のほか、 道々の見張り番を含め約160人という 大人数だったことから、 津軽のお殿様にとっても花火見物は、 夏の一大イベントだったことがうかがえる。

花火を楽しんだ千年山とは?

藩政時代、江戸城詰めの大名の間では 全国の景勝地の情報交換が盛んに行われ、 大名たちは競うように 国元に大規模庭園を造らせた。 貞享元年(1684)、 信政が現在の小栗山に造らせた千年山は、 藩主と家族のための行楽地。 山あり谷ありの広大な敷地には12の茶亭があり、 岩木山を眺められる景勝地であったという。 当時の絵図が残っていないため詳細は不明だが、 「三河国八景之図」をモデルにしたともされる。

風雅な遊び、蛍狩り

日本最古の和歌集『万葉集』にも登場するほど、 日本人とは馴染みが深い蛍。 平安時代から上流階級には蛍を観賞する 風習があったが、 庶民に広まったのは江戸時代に入ってから。 蛍狩りの時期は立夏から1ヶ月くらいで、 うちわや笹竹などで蛍を捕まえ、 蚊帳の端切れや竹細工の虫かごに入れて観賞した。

中泊町では毎年7月中旬に 中里川上流のホタルの里で、 「ホタルまつりinなかどまり」が開催される。 夕闇が迫る頃、少しずつ灯りが増え、 やがて光が乱舞する幻想的な光景は、 美しい日本の原風景ともいえる。

挿絵1

挿絵2

千年山での行楽料理

 

信政が、元禄9年(1696)、 10月15日に千年山へ 遊びにいったときの料理。

挿絵3

挿絵4

挿絵5

※御菜園/津軽4代藩主信政の頃、 藩の御台所「菜園所」があった。 「大鰐菜園所」では温泉熱を利用した 促成栽培も行われていた。

※曳而/または引而。ひいて。 膳組以外の余分な料理で数種類出される。 本膳の膳組に記されることは少ない。

2011.06.02

彩と賑わいを愉しむ

紅葉狩りの風情
藩主も訪れた「中野もみじ山」

県内外から多くの観光客が訪れる紅葉の名所 「中野もみじ山」。 江戸時代後期の旅行家・菅江真澄は 寛政10年(1798)の秋にこの地を訪れ、 その光景を、こう記した。

「野原・切り立った崖・岩の峯がそびえたつ頂上・ 小さな坂などの木々、 高いのも低いのもすべて紅葉し、 落ちる水が岩を飲み込んで激しく流れる風情、 はらはらと散る紅葉に夕陽が映る」。

津軽三不動の一つが祀られている中野村は 人々の信仰を集めていた。 中野もみじ山は不動堂の境内とされ、 黒石藩はもとより弘前藩の藩主もたびたび 参詣に訪れながら紅葉を鑑賞していたようだ。 さらに紅葉の名所として発展させたのは、 黒石藩から弘前藩へ養子に迎えられた 9代藩主・寧親。 享和2年(1802)9月26日、 中野を訪れた寧親は美しい情景に心動かされ、 翌年4月13日、 京都から取り寄せた楓の苗木を不動尊に奉納し、 また、自らの手で3本の楓を植樹した。

挿絵1

挿絵2

「弘前城菊と紅葉まつり」の開催

秋の弘前公園を彩る「弘前城菊と紅葉まつり」。 秋の紅葉を楽しむ 「観楓会(かんぷうかい)」に合わせて、 育てた菊を持ち寄る品評会が行われるようになり、 昭和37年(1962)、「菊ともみじまつり」として 開催されるようになったのが始まり。

江戸時代から、 春の桜見と秋の菊見は地域を問わず人々の楽しみ。 江戸では菊花で船や鳥を造る遊びが盛んとなり、 名古屋の黄花園が菊人形を全国的に普及させた。

弘前城菊と紅葉まつりでは約30体の菊人形と 着物姿の衣装人形10体で舞台を演出。 着物に見立てた小菊は7日くらいで 着せ替えが行われ、 会期中に印象の異なる人形を楽しめる。

挿絵3

挿絵4

2011.06.01

彩と賑わいを愉しむ

祭りの助演
大正時代、話題の飲食店

「花より団子」とはよく言ったもの。 桜花よりも時として注目を集めるのが食。 大正時代に話題となったものの一部をご紹介。

まずは大正5年(1916)に二の丸に開店し、 西洋一品料理やビールを提供した「末広」。 翌年には角長仕出し店が同じく 二の丸に西洋館を新築して「公園バー」を開業。 生ビールや洋食、 親子丼や牛めしもメニューに見える。 観桜会期間中、 二の丸には野崎食品による「カルピスホール」や 「コーヒー店」、百石町にあった「不老園」の喫茶店、 公園看守舎宅前の「大和館食堂出張店」は 洋食や日本酒、特にビールの販売で賑わっていた。 西濠には「蓮池亭」があり、鮎の鮓(すし)を提供。 大正8年(1919)の第2回の観桜会頃から園内には バナナのたたき売りやガサエビ売りが 目立つようになった。

挿絵1

挿絵2

挿絵3

挿絵4

挿絵5

挿絵6

祭りの賑わい、出店の歴史

サーカスにお化け屋敷、見世物小屋に津軽そば。 数々の出店も花見に賑わいを添える。

弘前公園に露店が出現したのは明治28年(1895)。 公園として一般開放された城址を訪れる 遊楽客をターゲットにした出店である。 明治32年(1899)4月の招魂祭では 二の丸から三の丸に渡って露店が立つようになる。 観桜会が開催した大正時代にはサーカスや芝居、 見世物に自転車レースなどの催しなどで賑わった。 しかし、戦争が出店の様子を変えてしまう。 カフェー街が二の丸から四の丸へ移転させられ、 大衆食堂でも酒の販売を禁じられた。 そして昭和18年(1943)、 ついに観桜会は中止された。 昭和21年(1946)、 戦後間もなくの出店は闇市まがいの露店が 暴利をむさぼりドブロクが横行、 香具師が婦女子に絡んだり 傷害沙汰が絶えないなど、混沌としていた。 それらを市が管理し、現在のような形となったのは 昭和30年代の事である。

2011.05.31

彩と賑わいを愉しむ

弘前の桜の歴史
弘前城に桜樹を植えた風流殿様

弘前公園の東内門そば、 「正徳桜」と呼ばれる桜が今も咲き誇っている。 この桜が植え付けられたのは正徳5年(1715)、 5代藩主・津軽信寿の時代。 『弘前藩庁日記』によれば 御家中が差し上げた11本の桜樹を城内に 植えたのが3月の末、 4月6日には「西の御郭へ桜を植え候につき 御家中より差し上げ候の覚え」として25本の桜が 献上されたと記されている。 この25本のうちの1本は八重桜であったようだ。 この年に植栽されたのは 前述の東内門そばの「正徳桜」にかすみざくら、 そして西濠の関山(かんさん)である。 これらは現在もなお、見事な花をつけている。

挿絵1

次々植えられる桜

『弘前藩庁日記』には、 信寿が矢継ぎ早に桜を植え付けたことが 記されている。 享保9年(1724)4月8日の記事には、 「先ころ二の丸と西の郭用に取り寄せた 桜を植え付けた、 この余りの五六本は北の御郭に植える」。 享保11年(1726)には、 「桜の木を所持の者は何本でもよいから 差し上げるように」との申し付けも出され、 これらの桜は西の郭や御茶屋前、 現在の弘前工業高校敷地内にあった 外馬場や南溜池の土手などに植えられた。

桜の名所にした立役者

藩政時代、それでもまだ城内の桜は 数が少なかった。 主が江戸改め東京に住み、 行政機関としての機能を失った明治時代。 手入れもされず荒廃していく旧城に私財を投じて 桜を植えたのが、 旧藩士の内山覚弥(うちやまかくや)、 そして旧藩士であり「青森りんごの開祖」として 有名な菊池楯衛(きくちたてえ)だった。 山林取締役兼樹芸方であった菊池は 私財を投じてソメイヨシノの苗木を購入、 明治15年(1882)に二の丸を中心に植樹。 しかしまだ士族の気風も強い時代の事、 「お城で宴会などもってのほか」と 折られたり伐られたり、 成木となったのはごく少なかった。 その中の1本が現在、 「日本最古のソメイヨシノ」として 見事な花を咲かせる樹である。

内山は菊池より2年早く、明治13年(1880)、 三の廓に自費で購入した桜20本を植樹していた。 菊池の試みが頓挫したのをみて、 まずは明治28年(1895)、 日清戦勝記念として1000本の桜を寄付。 さらに、市議会議員であった内山は 公園の美化のため桜の植樹を主張し続けた。 弘前公園の桜は、市民の手により植えられ、 守られてきたのだ。

挿絵2

弘前の観桜会(かんごかい)
弘前「桜まつり」初開催

明治に植栽された桜が成木となり、 花をつける大正時代。 まだまだ封建的な雰囲気も漂う弘前の街に 反発するような若者のグループがあった。 士族の二男や三男、 商家の跡取り息子などが結成した、 その名も「呑気倶楽部(のんきくらぶ)」。 その頃、弘前の人々は桜の季節になると 秋田の千秋公園、近場では 大円寺(現在の最勝院)や天満宮へ赴き、 弘前公園ではわずかに市民や商工会などが 花見を行うばかりであった。 弘前公園の桜を紹介しよう! 大正5年(1916)、 「呑気倶楽部」の面々は思い思いに珍装を凝らして 市内をパレード。 園内には市内の三大商店に頼んで 出店をしてもらい、 桜の下でどんちゃん騒ぎの宴を敢行し、 その様子を東京から呼び寄せた 活動写真の技師に紹介させた。

それが契機となり、大正7年(1918)には 商工会主催で第1回観桜会が開催。 戦時中には「時局と花の催し」に名を変え、 興行にも「国防」や「時局」の文字が多くなり、 国防一色になろうとも継続した観桜会だったが、 ついに昭和18年(1943)に中止された。 しかし、終戦の翌年、昭和21年(1946)には 早くも復活しているというから、 弘前人にとって城で行われる観桜会は 何にも代え難いものであったのだろう。

挿絵3

挿絵4

弘前公園、桜の銘木

老松と桜。深い緑が淡紅色をひときわ引き立 てる弘前公園には、銘木も数多く存在している。 二の丸与力番所から東内門の間には、明治15年 (1882)に植えられた「日本最古のソメイヨ シノ」。緑の相談所裏の「日本最大幹周のソメイ ヨシノ」も樹齢100年から120年と推定さ れている。二の丸の大枝垂れ桜は大正3年(19 14)、在弘宮城県人会から寄付された園内最大 のシダレザクラである。時期を同じくして植栽 されたのは本丸の「弘前枝垂れ」と棟方志功が命 名した「御滝桜」である。

挿絵5

2011.05.29

旬を採る聞

旬を採る聞

「春を摘む」行楽

 芹、よもぎ、つくしなどの若菜やわらび、 ぜんまいなどの山菜を摘んでうららかな 春の陽を浴び一日を過ごす。 また、芽生えたばかりの力強い生命力を食し、 病気を封じようとする願い。 古代の風習から始まった若菜摘みは、 宮中の行事にも取り入れられた。

将軍家にも献上津軽の春の旬を摘む

 ばっけ(ふきのとう)にあさつき、 わらび、ぜんまい...。 赤茶けた漬け菜や干し菜から一転、 春の訪れとともに瑞々しい山菜が食膳を彩る。 食料を確保するための山菜採りは、 田仕事の合間に春の野山を愉しむ好機でもある。

津軽の山菜、 特にわらびは品質の良さで知られていた。 元禄8年(1695)発刊の 『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』という本がある。 「津軽の産は円肥で味は殊によい」と記したのは、 幕府の医師・人見必大(ひとみひつだい)。 弘前藩では現在の平川市の小国や切明に場所を定め、 親指と人差し指、中指の三本の指で折る、 根本を揃え真ん中の柔らかいところ 4寸(約12㎝)ほど残して捨てる、 など細かく定められた方法で採集した わらびを塩漬けにし、 長らく将軍家へ献上していた。 また、現在の西目屋村川原平のぜんまいも 塩漬けにされて江戸へのぼり、 藩主の膳や進物に使われた。

挿絵1

身近な草花の効用。
養生は食にあり、薬は野山にあり。

ふきの葉や花、 地下茎を味噌汁か煎じた汁を飲んで解熱剤に。 タラノキの根を煎じて飲めば胃がんに効き、 樹皮を煎じて飲めば利尿作用剤、糖尿病、 じん臓の特効薬になる。 あるいは、タラノキの根とごぼうの根を煎じて 飲めば胃病に効果がある。 碇草は痰咳に効き、 疲れもとれるといって根のまま乾かして お茶代わりに飲んだ。 アケビは茎と葉を煎じて飲めば 利尿剤や頭痛の薬となる。 先に挙げたものは 言い伝えられてきたほんの一部。 山に親しみ自然を友に暮らした先人たちは 野山にあるものを糧にし、 また薬としても利用していた。

憩いの地「南溜池」

南塘グラウンドとして親しまれている 場所はかつて、「南溜池(みなみためいけ)」、 または「鏡ヶ池(かがみがいけ)」と 呼ばれる溜池があった。 今は水が抜かれ、藩政時代の面影は見られないが、 元来は城の南を守る堀として、 また、都市の用水を確保する 施設としての役割を担っていた。 藩では南溜池の景観の保護にも 力を注いでいたようだ。 『弘前藩庁日記』宝永7年(1710)7月23日の記事には、 本町5丁目から南溜池に至る 広小路の両脇の垣根を 箕垣(みのがき)にするようにとの 申し渡しが行われ、 また、文化4年(1807)4月29日には 「大円寺通」の土居沿いに松や桜を植え付け、 万延元年(1860)には、 これらの木々にいたずらをしないようにと 触書も出されている。

挿絵2

城下住民の憩いの場

こうした藩の尽力もあり、 また城下町に近い立地条件もあって、 南溜池は身分を問わず、 城下の人々にとっての憩いの場となっていた。 藩では納涼にやってきた城下の住民がくわえ 煙管でこの付近を徘徊する事を たびたび禁止しており、 文政5年(1822)には溺死の危険があるとして 「浴水」を禁止している。

藩主も行った釣り

景勝地でのんびり行う鮒や雑魚釣りは、 現在も昔も変わらない楽しみのひとつ。 南溜池は藩主が遊びとしての 漁をする場でもあった。 網を入れての「御漁」の際、 まったくの不漁であった事から天保期には 子鯉24000匹あまりが、 時には鰻が放流されることもあったようだ。 その鯉や鰻を狙ったものか、 南溜池では城下の人々が盛んに釣りを行っている。 禁止のお触れがたびたび出されていたが、 一向に効果がなかったようだ。

2011.05.29

花を愛でる行楽

弘前藩の桜の名所
長勝寺、風流殿様の花見

津軽家の菩提を弔う長勝寺で正徳5年(1715)、 藩主の花見が行われた。『弘前藩庁日記』によると 3月29日、 5代藩主・信寿(のぶひさ)は長勝寺の「霞さくら」 見物に訪れている。 新暦では5月2日にあたるこの日のために 殿様料理用の味噌、醤油、箸に楊枝、 照明用の蝋燭(ろうそく)まで落ち度の無いように 細々と指示が出された。 信寿は42歳で家督を嗣ぐまで長らく江戸に住み、 一流文化人らとの交流はもちろん、 吉原でも名を知られた「風流人」。 この日も御供への御馳走を赤飯から 御膳料理にするなど、気配りを忘れない。 午前11時頃から始められた花見は、 午後の5時頃まで行われた。

挿絵1

文人・粋人に好まれた弘前天満宮

太い幹には大きな木こぶ。滝のように垂れた枝。 弘前天満宮の境内、 樹齢500年以上とも700〜800年ともいわれる 「糸桜」(シダレザクラ)は現在もなお見事な 花を咲かせている。 岩木山を望む高台のこの地にはかつて、 領内の山伏を支配する修験司頭に任じられた 「松峯山長永寺」があった。 宝暦4年(1754)から 明治の神仏分離により廃寺となるまで、 糸桜は修験者によって保護されてきた。 岩木山の眺望と桜、 この地は文人や粋人に愛され、 多くの歌が詠まれた。 中でも「愛桜亭」の号をもつ毛内たきは 次の歌を遺している。 「行きて見ぬきみがためにとさくらがり」 「はなのかをりを袖にしめてき」

挿絵2

城下の人々のための行楽地、桜林

最終ページ「涼を愉しむ行楽」で紹介する 「千年山」が藩主一族のための行楽地なら、 桜林は城下の人々のための行楽地。 弘南鉄道弘高下駅のある弘前市桜林町は その名が示すように、 かつては桜花が美しい地だった。

桜林が造成されたのは享和3年(1803)。 9代藩主・寧親(やすちか)が 城下の人々の憩いの場を造るようにと家臣に命じ、 土淵川沿いのこの場が選ばれた。 植えられた桜は、手当を与えて富田村の庄屋に、 後には富田御屋敷の者に管理させるよう 申し付けられている。

花見弁当と古津軽塗

弁当を持参して花見をする風習が 一般的となった江戸時代。 それに伴い、 趣向を凝らした弁当箱が生み出された。 陶器製、蒔絵を施したものなど、そして津軽塗。

幕末に造られ青森県立郷土館に収蔵されている 「いろいろ塗り花見弁当箱」がある。 酒、料理、取り皿をコンパクトに収納する、 藩政時代のピクニックセットだ。 この花見弁当箱が 津軽塗技術保存会の職人たちの手で再現された。 この1つの弁当箱の中には16種類もの 古津軽塗の技法が用いられている。 馴染み深い津軽塗とは一風変わった、 ポップで鮮やかな模様。 花見気分を盛りあげる豊かな色彩。 今日では失われてしまった技法も盛り込まれた、 貴重な作品である。

挿絵3

挿絵4

2011.05.29

旬を採る。

歴史書に登場した津軽の春の素材と料理

津軽を舞台にした歴史書には いくつもの食の素材や料理が登場する。 それを見ると、 現在ある料理は古くからこの地に根付いている 料理であることを感じさせる。

がさえび(しゃこ)の醤油煮【春】

塩ゆでが一般的な「がさえび」だが、 『津軽道中譚(つがるどうちゅうたん)』によると 藩政時代には醤油煮で食べていたようだ。

挿絵1

山菜の煮物【春】

ふくべら、しおで、くまざみ、 さわらび、うど芽。山の幸が煮物とし て食された。(『津可呂の奥(つがろのおく)』、 『外浜奇勝(そとがはまきしょう)』)

身欠きにしんとうどの煮つけ【春】

小売り酒屋や茶屋で酒の肴として提供された。 (『津軽道中譚』)

ひらめの刺身【春】

津軽ではひらめを青葉とも呼んだようだ。 浅虫の宿では刺身で提供された。(『津軽道中譚』)

しらす【春】

鰺ヶ沢の海に注ぐ河口に四手網を仕掛け、 しらす漁を行っていた。 (『都介路迺遠地(つがろのおち)』)

松藻入りご飯【春】

藩政時代、岩崎の海士は習わしとして、 春になると松藻(まつも)という海藻を刈って干し、 米、麦、粟に混ぜてふだんのご飯としていた。 (『外浜奇勝』)

ツブナマシ【春】

年中を通して水をかけている田には、 どじょうやふな等の小魚やツブ(タニシ)、 どぶ貝などが多く棲んでいた。 明治時代まで、 3月の節句にツブナマシを作る習慣もあった。 (『岩木町々誌』)

ざっこの昆布巻き【夏】

小さな魚を昆布巻き。黒石の宿で供されました。 (『津軽道中譚』)

うにの塩辛【夏】

「卯月から五月にかけて、 久栗坂の海栗というものを採って、塩辛にする。 (中略)旅人は酒屋に入り、尻をかけ、 これを肴に酔い、 法師どもは海味噌と名付けて、しきりとなめ、 酒に酔っている」(『外が浜づたひ』)

『奥州道中記』に見る津軽の食と旬
郷土食物史愛好家 木村 守克

津軽弁で津軽の滑稽道中を記したものに 『奥州道中記』(弘前市立弘前図書館蔵) というものがある。 藩政時代が終わる直前の元治2年(1865)に 書かれたもので、 著者は自称十返舎十九の又々又弟子の 一遍四半舎二半九という、 ふざけた名前で実際の作者は不詳である。 文章はあまり上手とはいえず、 随分えげつない話も現れる。

大館から弘前に至る短い道中記で、 江戸からきた弥次郎、北八を、 大館の佐吉という者が 案内するというものである。 この道中から当時の風俗や民俗、 食生活の一部を知ることができる。 食べ物では、川魚のかじかの卵かけ、 かじかの吸い物、みずの粟漬け、身欠にしん、 とうふはんぺん、 大鰐もやしの醤油かけなどと いうものが出てくる。

碇ヶ関あたりではかじかの 玉子かけを食べている。 この頃には津軽でも 生卵がふつうに食べられていたらしい ということが知られる。 またかじかの吸い物は蓋つきで出て、 「む(う)めいえび塩梅(あんばい)」といわせて、 一番の出来物だとほめている。 かじかの吸い物など現在は 見ることもないが、 聞くところでは黒石で今もかじか料理が 食べられるということである。 幻の料理といえよう。

濁り酒も売られていた。 古懸あたりで、 茶屋の婆は濁酒を弥次郎一行に出している。 ここでは酒の肴に身欠にしんと、 春慶塗の曲げ物にみず(うわばみ草)の 漬物を出している。 弥次郎はこのみず漬をおいしいと お代わりをするが、濁酒に悪酔いをして、 蛇草のみず漬を食べ過ぎたせいと、 今にも死にそうだと大騒ぎをする。

宿川原あたりには名代の 「はんべん(はんぺん)とうふ」 というものがあった。 はんぺんとうふは、とうふをすったものに、 山の芋をすって混ぜて蒸したもので 江戸時代のとうふ料理である。 茶屋の女は「おめやも(あなたも) はんべんこかへで(お代わりして)喰えへ」と いっている。

そして『弘藩明治一統誌』にも、 所の茶屋名物として鯖石村のみず漬、 石川村の豆腐のはんぺんなどが 挙げられている。 『奥州道中記』では小栗山あたりの茶屋で 大鰐もやしを食い、 酒に酔いつぶれた同行の男に 勘定を全部押しつけて、 一行は逃げ出して道中記はまもなく終わる。 『奥州道中記』は、 食べ物に視点をおいても 味わいのある資料といえる。

挿絵1


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