弘前藩よろず生活図鑑 Web版

陸奥新報紙面で掲載した内容を、
不定期に更新していく、
Web版よろず生活図鑑です。
紙面を見逃した方も、初めて読む方も、
分かりやすい内容となっています。

旅と娯楽編

2010.05.05

北方警備に赴いた
弘前藩士の予防薬

ロシア船の南下など日本をめぐる国際情勢が激変した18世紀末、その防止策として、幕府は寒さに慣れた東北藩士を蝦夷地(現・北海道)に派遣(1807年)。その多くは弘前・会津藩士であった。

かし、その多くがビタミン不足による不治の病「浮腫病」(※1)の犠牲となり、幕府は1855年(安政2年)の再派遣時に薬効性の高い「珈琲」を配給した。長崎・出島の蘭学者や特権層を除くと、日本で最初にコーヒーを飲んだ庶民は弘前藩士であり、彼らの命の綱は紛れもなく「珈琲」であったといえる。

※1 浮腫病/水ぶくれになり、顔がむくみ、腹が太鼓のようになって苦しみ死ぬという奇病。

珈琲の歴史に思いを馳せる「おもてなしの心」

津軽の先人たちが見舞われた悲劇を偲び、その御霊にとりつかれたかのように「藩士の珈琲」を幕末当時の淹れ方で再現した成田専蔵氏(58歳)。その想いの原点を1992年に自らが建立した稚内市・宗谷公園の慰霊碑に示した。

そして、コーヒーを愛し、研究・提供に努める立場として故郷や家族を想い、コーヒーを口にすることなく亡くなった先人の無念さ、コーヒーを貴重な薬として「ありがたく」服用したであろう先人たちの心情を、琥珀色の1杯に心を込めて注いでいる。「歴史のロマン溢れる城下町・弘前から人と人の輪を育み、日本地図全体を珈琲色に染めたいですね。」成田氏の夢と情熱は未来へと続く。

挿絵1

挿絵2

挿絵3

挿絵4

プロフィール

成田専蔵(なりた・せんぞう)
青森県平川市出身。旅行会社勤務後、23歳で脱サラし喫茶店を経営。平成5年、弘前市樋の口に焙煎工場「北の珈琲工房」を設立し、11年同市城東北に現在の「成田専蔵珈琲店」を開店。弘前コーヒースクールを主宰。

成田専蔵珈琲店

2010.05.04

大衆娯楽

やあ、やあ、やあ。津軽に芸能人がやってきた。

江戸の芸能文化の花形、歌舞伎。慶長12年(1607)出雲の阿国が江戸城で歌舞伎を上演したのを契機に、寛永元年(1624)に江戸に常設芝居小屋ができ、爆発的人気を得ていく。

あまりの人気の過熱ぶりに、寛永6年(1629)には風紀が乱れるという理由で、女歌舞伎を禁じたほどだった。

そして弘前藩でも3代藩主信義のとき、正保3年(1646)に初めての歌舞伎が上演された。ちなみに延宝3年(1675)にも下鍛冶町(いまの桶屋町)で女歌舞伎が5日間、興行したと記録にある。江戸では女歌舞伎は禁じられていたはずだが、地方ではその通りにいかないことも多かったのだろう。

4代藩主信政のとき、藤八太夫という者に許可を与え、ついに元禄4年(1691)弘前藩で初めての芝居小屋が茂森に建てられた。信政としては、庶民というものは無学で文盲、礼節を知らないものだから、史実や事件を題材とした歌舞伎で教育しよう、という意図があったようだ。

歌舞伎とは異なるが延宝2年(1674)城中の書院前白砂に能舞台が完成し、初めての能楽が上演された。なんと藩士・町人にも見せたという。その後も御書院菊の間でも能楽を町人に見学させたり、下鍛冶町・大工町で勧進能が開かれたりした。芸能を通じて文化振興の種まきをしようと、お殿様がずいぶん頑張った時代なのかもしれない。

挿絵1

禁じられた遊び、花札カルタ。

日本語として定着したカルタは、そもそもポルトガル語で札・カード・手紙といった意味の言葉である。16世紀にポルトガルのカード遊びが日本国内向けにアレンジされ「天正カルタ」が生まれた。たちまち全国に広まった天正カルタは賭博の対象となったため、しばしば禁止令が出され、ついに元禄年間(1688〜1704)の終わり頃には製造販売まで禁止となる。

これに替わって登場したのが「ウンスンカルタ」である。遊戯性を高めたものだったが、これもまた賭博の道具となり禁止。そうして文化年間(1804〜17)の頃には日本的な趣向の「花札」が登場する。新しいカルタ遊びの誕生とその禁止令は、いたちごっこの様相を示していたが、ここでも「江戸花札カルタ禁止令」が天保12年(1841)に出され、カルタ札はもちろん賭博に関わる道具一切が売買禁止となった。

方で読み札と取り札によるいわゆるカルタは賭博のカルタとは一線を画する。百人一首カルタは通常の遊び方のほかに「坊主めくり」もその頃から楽しまれていた。江戸後期には「いろはかるた」が考案され、ことわざの教育をも担う遊びとなった。

弘前藩では江戸から遠く離れていたためか取り締まりがゆるく、イギリスのトランプが持ち込まれ、静かに定着していった。「ゴニンカン」というトランプ遊びもそうして受け継がれてきたゲームのひとつだが、いまや五所川原で世界選手権大会を開催するほどになっている。

挿絵2

2010.05.03

大衆娯楽

夜が暗かったからこそ、花火はまさに夏の華。

江戸時代、津軽の夜空にも花火はがっていた。最も古い記録は寛文12年(1672)、4代藩主信政が夕食後に内馬場で家臣達と花火を楽しんだ、というもの。

少し下って元禄7年(1694)7月13日の記録には花火の名前まで記されている。絵図がないのでデザインまではわからないが、風流な名前に想像が広がる。

例をあげると、ぼたん・桜花・白菊・もくれん花・水仙花・あおい・山吹・糸桜・糸柳など花や木にちなむものが多い。他に、大風・大雨・雪・流星・車火・網火など、動きを想わせる名前もある。

このとき信政は、家老をはじめ足軽や料理人など131人の家来を連れての観覧だったようで、いまの小栗山にあったとされる千年山で茶の湯と花火を楽しみ、夜10時頃に上機嫌で帰ってきたという。

なみに当時の花火の色はオレンジ一色だけのようだが、充分明るく感じただろう。また、戦国時代には戦の道具だった火薬が、泰平の世には夜を美しく彩るようになったことに、身分を問わず、隔世の感を抱いたかもしれない。

もちろん規模は違うが、庶民も花火を楽しんでいた。ただ、楽しみが過ぎて火災に至るのを防ぐために、元禄15年(1702)あたりからは屋敷内での花火を禁じるお触れが何度か出たようだ。結局人々は、川原や南溜池(いまの南塘グラウンド)で花火を楽しんだという。

挿絵1

相撲に夢中な、お殿さま。
相撲にあつい、若者たち。

相撲好きなお殿様は多い。武士である限り、強いものを礼賛するのは自然な心情でもある。

ここ弘前藩でも、相撲を奨励し定期的な相撲大会を行っていた。相撲にまつわる記録も多い。勇武を好んだ3代藩主信義以降、たくさんの力士が召し抱えられたという。

4代藩主信政は、貞享元年(1684)に城内西の郭に新設した相撲場で相撲を観戦し、相撲奉行まで設置した。元禄10年(1697)には徒町・徳田町の川原で勧進相撲が行われた。5代藩主信寿は、江戸で人気の関取を呼び寄せて、西の郭で高覧したという。9代藩主寧親は文化8年(1811)に稽古場を造り、翌年に相撲を高覧した。文政2年(1819)には富田でも相撲の興行があったという。

また、城下の外、近隣の村々でも相撲が盛んだった。土俵は川原や神社の境内に造られ、旧暦6月中旬から8月まで、毎晩のように力自慢の若者たちが相撲をとった。氏神の祭りの前夜祭にも必ず行われたという。

豪商金木屋の日記には、お盆に行われた相撲大会の際、酒に酔った見物人による喧嘩に辟易している様子が記されている。相撲を見ることも相撲をとることも、どちらも庶民が心底楽しめて開放的になれる、大事な娯楽だったと言えるのではないだろうか。

挿絵2

2010.05.02

蓑虫山人(みのむしさんじん)が見た岩木川と津軽の暮らし

蓑虫山人(1836〜1900)は、幕末から明治にかけて全国を旅した画家。美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、14歳の時に放浪の旅に出た。

青森県には、津軽地方を中心に10年近く滞在し、名所旧跡、街並み、祭りなど当時の暮らしの様子を描いている。平成13年に大鰐町の個人宅で発見された蓑虫山人の、全3巻からなる絵巻物「三面瀑岩木川図巻」(大鰐町・成田文治所蔵)は、岩木川上流の「暗門の滝」から「十三湖」までを描いた長さ45メートルの大作。

岩木橋や富士見橋、材木を集めておく樋ノ口土場、その向こうに見える五重塔や長勝寺、また、帆掛け船の往来、漁の様子などが鳥瞰図風に描かれている。

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2010.05.01

旅行記は当時のガイドブック

挿絵1

夏の盛りに江戸の2人を大館生まれの佐吉が弘前案内『奥州道中記』

『御国巡覧滑稽嘘尽戯』に遅れること5年、元治2年(1865)に『奥州道中記』が刊行された。遍四半半丸が著したこの作品は、夏の盛りに江戸生まれの弥次郎兵衛と北八の2人を大館生まれの佐吉が案内する趣向で、3人は羽州街道を北上して矢立峠から津軽領へ入り、碇ヶ関、大鰐、石川、小栗山、千年川とたどって弘前までの3泊4日の旅をする。

挿絵2

旅をこよなく愛し、人に愛された菅江真澄

江戸時代後期、津軽をくまなく歩いた旅行者がいた。菅江真澄。博学者でもある彼は、訪れた各地の風習や習慣、伝承を書きとめ、写実的なスケッチ画を描いた。記録した旅行記は200冊を数え、それらは『菅江真澄遊覧記』と総称されている。 

『楚堵賀浜風(そとがはまかぜ)』。天明5年(1785)、大間越より津軽領へ入った菅江真澄は五所川原を経て弘前で名月を眺め、松前に渡ろうと青森へ至るが、天明の飢饉のため断念し、引き返して矢立峠を越え秋田へ入った。

天明8年(1788)の『率土か浜つたひ(そとがはまづたい)』では狩場沢より津軽へ入り、津軽半島を東岸沿いに北進、三厩から舟に乗り松前へ渡っている。 寛政7年(1795)3月から寛政8年(1796)4月までの2ヵ年に渡る旅の草稿は、後人の手によって『津可呂の奥(がろのおく)』に纏められた。

また、寛政8年の秋からは西目屋村の暗門の滝を見るために、当時滞在していた深浦から往復した記録には『雪の母呂太奇』の名が付けられている。

菅江真澄が歩いたのは、整備され、宿場も整えられた安全な道ばかりではない。時には宿の当てもなく、時には雨や雪に降り込められる寄る辺ない旅を続ける菅江真澄を、人々は温かく迎えた。

雪降り積もる黒石市の高舘で宿を求めた菅江真澄に、家の主は自分の場所を与え、「こんな奥地で大雪に遭い、こんな粗末な家で寝ることになるとは可哀相だ」と菅江真澄の身上を我が事のように悲しんだ。

また、冬に暗門の滝を見に行こうとした菅江真澄に、川原平の家の主はカモシカの毛皮の服を貸し、無事に戻ってきた菅江真澄を歓迎している。

旅行記にはこうした記述が散見し、その土地の人と同じ目線であろうとする菅江真澄と、実直な彼の人柄に好感を抱いて交流を深める人々の様子が浮かび上がってくる。

藩政時代に記録された津軽

実際に津軽を訪れた人々もまた、当時の津軽の情景を多く記録していた。

宝暦8年(1758)、津軽を訪れた上方の商人が著した『津軽見聞記(つがるけんもんき)』は、商人が綴っただけあって名所の他、物価や名物、その値段が細かく記されている。

また、旅行は若者のだけの特権ではない。南部藩士・菊池成章は65歳という年齢ながらも諸国巡りの旅行に出立した。彼の旅行記『伊紀農松原(いきのまつばら)』は、短いながらも高い教養が感じられる記述が多い。

挿絵3

挿絵4

2010.04.30

旅行記は当時のガイドブック

ガイドブックでもあった『御国巡覧滑稽嘘尽戯』と『奥州道中記』

『東海道中膝栗毛』の大ヒットを受け、地方独自の滑稽本が次々と発刊された。洒落や歌、イタズラに数々の失敗といったユーモアの中にも各地の有名な寺社仏閣、名所旧跡、温泉や名物などが盛り込まれる滑稽本は、これから旅に出よう、出たいと思う人々の期待に応えた。津軽にも現在、2つの滑稽旅行本が遺されている。

挿絵1

江戸男と津軽男の二人旅御国巡覧滑稽嘘尽戯

万延元年(1860)に発刊された『御国巡覧滑稽嘘尽戯(おくにめぐりこっけいうそつきげ)』(通称・『津軽道中譚(つがるどうちゅう)』)は一瓢舎半升の作で、江戸生まれの喜次郎兵衛を弘前生まれの弥太八が津軽各地を案内し、物語が展開する。

2人は4月はじめ、矢立峠から羽州街道を北上し、碇ヶ関、大鰐、鯖石、乳井、猿賀、黒石、浪岡とまわりここから大豆坂(まめさか)通を抜けて浅虫と来て、舟で島巡りをした後、その舟で青森へ向かい青森見物をする、という6泊7日の旅の道中が描かれている。

居づらくなった江戸を出奔し、松前に渡って稼ごうと目論んで津軽へとやってきた2人が繰り広げる軽妙なやりとりに、全8巻という長さにもかかわらずついつい読み耽ってしまう。

挿絵2

2010.04.29

つがる弘前、藩政時代の旅行を見聞

旅の必需品だった薬


当時の旅は体力を要するうえ、慣れない土地の食事などで体調を崩すことも多く、薬は旅に欠かせないものだった。

『旅行用心集』では、腹痛・食あたりには「熊胆(くまのい)」、「返魂丹(はんごんたん)」、生水を飲む時は「五苓散(ごれいさん)」、「胡椒(こしょう)」、食あたりには「備急円(びきゅうえん)」など、旅に常備すべき13種類の薬を挙げている。

旅行の費用は?

江戸時代には金貨、銀貨、銭貨の3種類の貨幣があった。この3貨はそれぞれ独立しており換算率が一定ではないうえ、たえず変動していた。そのため、当時の旅の費用を正確に割り出すことはきわめて難しい。

仮に、江戸時代後期の米の相場を基準にして、1文を現代の金額25円で計算してみよう。『東海道中膝栗毛』に登場する2食付きの旅籠(はたご)が1泊約200文(約5000円)、それに昼食代や休憩代、草鞋代などを加えると、1日にかかるお金が約400?600文(約1万〜1万5000円)。

20日間の道中だと約3両の出費となる。一般町人の年収が20〜30両くらいなので、当時の旅行は庶民にとって憧れのものであったといえる。


旅のパスポート


庶民が旅をする時には、「往来手形」と「関所手形」を携行することが決められていた。これらは、身分証明書と通行許可証を兼ねた一種のパスポートで、諸国の番所を通過する際に提示しなければならなかった。往来手形は、主に「菩提寺」が発行した。


挿絵1


挿絵2


挿絵3


挿絵4

2010.04.28

つがる弘前、藩政時代の旅行を見聞

旅行ブームと旅行記

江戸時代の庶民は、幕府や藩によって観光や遊興を目的にした旅は、原則的に禁じられていた。しかし、信仰の旅は大目に見てもらえたため、人々は信仰や信心を名目に四国八十八ヵ所霊場巡りや、伊勢参りに出かけた。

弘前藩では、こうした遠隔地へ出かけていく信仰形態に対し、たびたび規制を行っている。 享和2年(1802)には、『東海道中膝栗毛』(十返舎一九(じっぺんしゃいっく)・作)が発行され、当時の人々を旅へとかきたてた。

文化・文政年間(1804〜30)には全国的な旅行ブームが訪れ道中記や、案内記などガイドブックの出版も相次ぐ。文化7年(1810)に発行された、八隅蘆菴(やすみろあん)の『旅行用心集』は、大ベストセラーになった旅のハウツー本である。

また、『浪花講定宿帳』は、江戸版「ホテルガイド」として評判を呼んだ。津軽に関する旅行記では、菅江真澄の『菅江真澄遊覧記』、古川古松軒の『東遊雑記』、橘南谿の『東遊記』などが知られている。

旅の服装と持ち物

江戸時代の旅は、徒歩がメイン。男性であれば、1日平均40?も歩いたという。そのため、履き物選びは最も重要であった。

旅の指南本の多くは、草鞋(わらじ)は武士の甲冑(かっちゅう)と同じなのでお金を惜しまず、できるだけ良いものを買い求めた方が良いと強調している。

当時の標準的な旅の服装は、脚絆(きゃはん)に手甲(てこう)、合羽(かっぱ)をはおり、菅笠(すげがさ)をかぶるスタイル。道中は危険も多いので、町人も護身用刀の所持が許された。

 『旅行用心集』では、旅の持ち物に「矢立(筆記具)、扇子、針と糸、日記手帳、櫛と鬢(びん)付け油、提灯、蝋燭(ろうそく)、洗濯物を干す麻綱」などを挙げている。また、便利グッズとして、軽さを追求してつくった「紙のそろばん」や、スリ対策のため刀に見せかけた小銭入れなど、ユニークなものも紹介している。

現代にも通じる旅の心得

前出の『旅行用心集』は、今から200年前に書かれたものであるにも関わらず、現代にも通じる旅の知恵や心得が記されており興味深い。

旅の所持品、空模様の見方、船酔いの対処法、水が替わることへの用心、毒虫を避ける方法、疲労回復法など、実用的な裏技が満載。

「旅の所持品はできるだけ少なくすべき。所持品が多いと忘れ物も多くなって、かえてわずらわしくなる」というあたりは、現代でも変わらない。

挿絵1

挿絵2

挿絵3

挿絵4


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