冷蔵庫普及以前、人々は自然の力を最大限に利用し、多様な保存方法を編み出してきた。漬ける、干す、醸す…。それらは、生食では味わえない食感や味わいを生みだした。
■郷土食物史家 木村 守克
けの汁は古い昔から津軽に伝わる小正月の行事食である。けの汁は津軽の七草ともいわれるが、元県知事の竹内俊吉さんは「けの汁を七草がゆとして食うべ」と詠んでいる。
私はかつて、けの汁のことを知りたくて県内と秋田県の一部を訪ねて、多くの人々に材料や作り方、そしてその思い出などを教えていただいた。けの汁は、地域や、家庭によって材料、切り方、味付けなど調理の方法が異なり多様である。しかし多くは、だいこん、にんじん、ごぼうなどの野菜類、ふき、わらび、ぜんまいなどの山菜類、それに油揚げ、凍み豆腐、大豆を細かく砕いたズンダなどの大豆製品を基本的な材料として、みそ、しょうゆなどで味付けをした素朴な料理である。けの汁にはいくつもの伝承がある。拙著を出してから、このことに関連して、さるご住職からお手紙を頂戴したことがあった。それは、このご住職がかつて小僧で修行していたお寺に代々、藩祖為信とけの汁のことについて次のようなことが語り継がれてきたというものである。「為信が正月に平賀の大光寺城を急襲したときには、平賀にあったこのお寺に、ひそかに陣を張っていたという。早朝の出陣に武士たちが腹ごしらえをしようとしたら、用意していた野菜が凍ってしまっていたので、このお寺の住職の発案で野菜などを細かく刻み、これをみそで煮て食べさせたという。それが意外においしかったので、それ以後、毎年小正月に野菜などを細かく刻んで煮た料理を食べるのが習わしになったという。」
凍った野菜を細かく刻んだことなど、とても真実味を帯びている。大光寺城の城門は今もあり、かつて平賀にあったこのお寺は、その後弘前に移されて茂森の禅林に現存する。もしかしたら四百年前の為信の時代にもけの汁があったのではないかと思われてくる。
ところで、けの汁はどこから来たものなのだろう。平安時代の宮中の正月行事に1月7日に七種の若菜を羮(熱い吸物)として食べる七種菜と、1月15日に七種の穀類を固粥にして食べる七草粥があったことから、このあたりにルーツがあるのではないかと考える。
津軽でけの汁が文献に見られるのは、五所川原の『平山日記』に、約280年前の元文5年(1740)1月16日、「今朝七草の汁に粥を食し」とある。期日からみて「七草の汁」とはけの汁のことと推察される。時代が下って、「金木屋武田又三郎日記」の天保8年(1837)1月15日には、「今日年越し、かゆの汁刻む」とある。そして16日にも神仏に供えたであろう「白粥、かゆの汁」と見える。けの汁の呼称について様々なことが言われてきたが、けの汁の「け」は方言で、「かゆ=粥」のことであろう。又三郎はそれを知っていて日記には紛れもなく「かゆ」と記したのであろう。
ちなみに秋田では「粥」を方言で「きゃ」などと呼んでいる。秋田でのけの汁は「きゃの汁」
「きゃのっこ」などである。