津軽家の菩提を弔う長勝寺で正徳5年(1715)、藩主の花見が行われた。『弘前藩庁日記(国日記)』によると3月29日、5代藩主信寿は長勝寺の「霞さくら」見物に訪れている。新暦では5月2日にあたるこの日のために殿様料理用の味噌、醤油、箸に楊枝、照明用の蝋燭まで落ち度の無いように細々と指示が出された。信寿は42歳で家督を嗣ぐまで長らく江戸に住み、一流文化人らとの交流はもちろん、吉原でも名を知られた「風流人」。この日も御供への御馳走を赤飯から御膳料理にするなど、気配りを忘れない。午前11時頃から始められた花見は、午後の5時頃まで行われた。
太い幹には大きな木こぶ。滝のように垂れた枝。弘前天満宮の境内、樹齢500年以上とも700〜800年ともいわれる「糸桜」(シダレザクラ)は現在もなお見事な花を咲かせている。岩木山を望む高台のこの地にはかつて、領内の山伏を支配する修験司頭に任じられた「松峯山長永寺」があった。宝暦4年(1754)から明治の神仏分離により廃寺となるまで、糸桜は修験者によって保護されてきた。岩木山の眺望と桜、この地は文人や粋人に愛され、多くの歌が詠まれた。中でも「愛桜亭」の号をもつ毛内たきは次の歌を遺している。
「行きて見ぬきみがためにとさくらがり」
「はなのかをりを袖にしめてき」
最終ページ「涼を愉しむ行楽」で紹介する「千年山」が藩主一族のための行楽地なら、桜林は城下の人々のための行楽地。弘南鉄道弘高下駅のある弘前市桜林町はその名が示すように、かつては桜花が美しい地だった。
桜林が造成されたのは享和3年(1803)。9代藩主寧親が城下の人々の憩いの場を造るようにと家臣に命じ、土淵川沿いのこの場が選ばれた。植えられた桜は、手当を与えて富田村の庄屋に、後には富田御屋敷の者に管理させるよう申し付けられている。
弁当を持参して花見をする風習が一般的となった江戸時代。それに伴い、趣向を凝らした弁当箱が生み出された。陶器製、蒔絵を施したものなど、そして津軽塗。
幕末に造られ青森県立郷土館に収蔵されている「いろいろ塗り花見弁当箱」がある。酒、料理、取り皿をコンパクトに収納する、藩政時代のピクニックセットだ。この花見弁当箱が津軽塗技術保存会の職人たちの手で再現された。この1つの弁当箱の中には16種類もの古津軽塗の技法が用いられている。馴染み深い津軽塗とは一風変わった、ポップで鮮やかな模様。花見気分を盛りあげる豊かな色彩。今日では失われてしまった技法も盛り込まれた、貴重な作品である。
「遠近のどこの山も、村里一帯、すべて紅の雲がたなびくように、うすい色の桜花が咲き渡っている光景は、喩えようもなく美しい」
寛政8年(1796)4月、江戸時代後期の旅行家・菅江真澄(すがえますみ)は青森市三内をこう評した。この地に咲くのは他に類をみない「千本桜」。紀行文『栖家能山(すみかのやま)』によるとその姿は、「一もとの木に、二朶三えださゝかに茂りて、花に花の寄生あるがごとく」、小さな桜がびっしり生い繁る様は毬のようであったという。天明の大飢饉で多くが薪として伐採された後でありながら、その美しさは旅人を感嘆させるには充分であったようだ。
「現在の弘前市岩木地区で酒造業を営んでいた金木屋が遺した『金木屋日記』。嘉永7年(1854)を例にとると、姥柳の芽が白んだという記事に始まり、えぼた、梅、梨、田打桜(こぶし)、菜種などの芽生えや開花情報、時折「当年諸木芽出し遅し」「例年よりハ遅し」という言葉も見られる。中でもドウダンツツジについての描写が多い。ドウダンが花盛りの年は不作になるとの伝承があり、酒造を生業とする金木屋は花によってその年の豊凶を予知しようとしたのだろう。
「花見は特別の意味をもつ行事である。古代の人々にとって、ある種の花は、その年の豊作を知らせるために土地の精霊が咲かせ、神霊の力が宿るものである。早く散るような事があれば前兆が悪い、散ってくれるな。人々は願い、食物や神酒を供えて歌や踊りを奉納するマツリを行った。ひと通りの神事を終えた後、供えた食物を皆でいただく宴は、神霊の加護を願い参加者同士の結びつきを強めるとともに、斎戒を解き日常へ戻る役割を担う。(『折口信夫全集2』 中央公論社)
「早く散ると縁起が悪い」。実用的な願いはやがて「儚く散るものへの愛おしさ」という想いへ変化していく。平安初期に編纂された歴史書『日本後紀』には、弘仁3年(812)2月12日、嵯峨天皇が神泉苑へ赴いたのが花見の宴の始まりと記されている。また『続日本後紀』承和12年(845)2月1日には京都御所内の紫宸殿で梅見の宴も行われた。詩歌を詠み舞を愉しむ、平安の花見は貴族たちの風雅な遊びだった。
世の中心が貴族から武士へ移りゆき、花見の文化も武士や地方の豪族の間に浸透していく。
鎌倉時代の随筆『徒然草』の一節に
「片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取りぬ」。
京都の名家に生まれ宮廷に仕えた経験もある吉田兼好は、騒々しい花見の宴に眉をひそめたに違いない。
荒廃した醍醐寺(だいごじ)を改修、畿内各地から集めた700本の桜を植樹し、春のひとときを愉しむためだけに山ひとつを丸ごと造りかえた「醍醐の花見」。豊臣秀吉が並々ならぬ想いを注いだ宴は慶長3年(1598)3月15日、正室や側室、嫡子はじめ配下の武将やその家族など約1300人が招待された過去に類をみない盛大なものとなった。各地方の献上品に趣向を凝らした8ヶ所の茶屋に参加女性たちの2度の衣裳変え。豪華絢爛な花見は庶民の話題となり、行楽としての花見文化を広げる契機となった。
江戸時代の初期は屏風や幔幕(まんまく)を巡らせた中で詩歌音曲に親しむ高雅なものだった。しかし、8代将軍・吉宗の存在が花見の文化をおおいに発展させる事となる。隅田川の堤、飛鳥山、御殿山。次々に創り出した名所は仲間同士、気軽に訪れられる楽しみの場として定着していった。とびきりの着物や桜を模したかんざしなどで着飾る女性たち。揃いの着物や三味線、即興芝居などのパフォーマンスで賑わわせる若者たち。花見にかこつけて見合いをする事もあったようだ。
上記の参考文献・資料
『ヴィジュアル百科江戸事情 第一巻・生活編』 NHKデータ情報部:編(雄山閣出版)/『折口信夫全集2』 折口信夫:著(中央公論社)/『私説 弘前城物語』 田澤正・著(北方新社)/『失われた弘前の名勝』 田澤正:著(北方新社)/『菅江真澄全集 第3巻』 内田武志・宮本常一:編(未来社)/『日本後紀』(朝日新聞社)/『続日本後紀』(朝日新聞社)/『全訳源氏物語 上巻』 与謝野晶子:訳(角川書店)/『徒然草』 吉田兼好:著(角川書店)、『お江戸でござる 現代に活かしたい江戸の知恵』 杉浦日向子:監修(ワニブックス)/『青森県叢書第3巻』 新編青森県叢書刊行会:編(歴史図書社)/『新編弘前市史 岩木地区資料編』 長谷川成一:監修・岩木町史編集委員会:編(弘前市)/『つがる古文書こぼれ話』 弘前市立弘前図書館後援会:編(北方新社:発行)
上記の参考HP
京都市都市緑地協会/キリンホールディングス/青森県庁「青森県の文化財」
取材協力(2011年当時)
今 年人(津軽塗技術保存会 会長)