弘前公園の東内門そば、「正徳桜」と呼ばれる桜が今も咲き誇っている。この桜が植え付けられたのは正徳5年(1715)、5代藩主信寿の時代。『弘前藩庁日記(国日記)』によれば御家中が差し上げた11本の桜樹を城内に植えたのが3月の末、4月6日には「西の御郭へ桜を植え候につき御家中より差し上げ候の覚え」として25本の桜が献上されたと記されている。この25本のうちの1本は八重桜であったようだ。この年に植栽されたのは前述の東内門そばのカスミザクラ「正徳桜」、そして西濠の八重桜「関山(かんざん)」である。これらは現在もなお、見事な花をつけている。
『弘前藩庁日記(国日記)』には、信寿が矢継ぎ早に桜を植え付けたことが記されている。享保9年(1724)4月8日の記事には、「先ころ二の丸と西の郭用に取り寄せた桜を植え付けた、この余りの五六本は北の御郭に植える」。享保11年(1726)には、「桜の木を所持の者は何本でもよいから差し上げるように」との申し付けも出され、これらの桜は西の郭や御茶屋前、現在の弘前工業高校敷地内にあった外馬場や南溜池の土手などに植えられた。
藩政時代、それでもまだ城内の桜は数が少なかった。主が江戸改め東京に住み、行政機関としての機能を失った明治時代。手入れもされず荒廃していく旧城に私財を投じて桜を植えたのが、旧藩士の内山覚弥、そして旧藩士であり「青森りんごの開祖」として有名な菊池楯衛だった。山林取締役兼樹芸方であった菊池は私財を投じてソメイヨシノの苗木を購入、明治15年(1882)に二の丸を中心に植樹。しかしまだ士族の気風も強い時代の事、「お城で宴会などもってのほか」と折られたり伐られたり、成木となったのはごく少なかった。その中の1本が現在も見事な花を咲かせる樹である。
内山は菊池より2年早く明治13年(1880)、三の丸に自費で購入した桜20本を植樹していた。菊池の試みが頓挫したのをみて、まずは明治28年(1895)、日清戦勝記念として1000本の桜を寄付。さらに、市議会議員であった内山は公園の美化のため桜の植樹を主張し続けた。弘前公園の桜は、市民の手により植えられ、守られてきたのだ。
明治に植栽された桜が成木となり、花をつける大正時代。まだまだ封建的な雰囲気も漂う弘前の街に反発するような若者のグループがあった。士族の二男や三男、商家の跡取り息子などが結成した、その名も「呑気倶楽部」。
その頃、弘前の人々は桜の季節になると秋田の千秋公園、近場では大円寺(現在の最勝院)や天満宮へ赴き、弘前公園ではわずかに市民や商工会などが花見を行うばかりであった。弘前公園の桜を紹介しよう! 大正5年(1916)、「呑気倶楽部(のんきくらぶ)」の面々は思い思いに珍装を凝らして市内をパレード。園内には市内の三大商店に頼んで出店をしてもらい、桜の下でどんちゃん騒ぎの宴を敢行し、その様子を東京から呼び寄せた活動写真の技師に紹介させた。
それが契機となり、大正7年(1918)には商工会主催で第1回観桜会が開催。戦時中には「時局と花の催し」に名を変え、興行にも「国防」や「時局」の文字が多くなり、国防一色になろうとも継続した観桜会だったが、ついに昭和18年(1943)に中止された。しかし、終戦の翌年、昭和21年(1946)には早くも復活しているというから、弘前人にとって城で行われる観桜会は何にも代え難いものであったのだろう。
老松と桜。深い緑が淡紅色をひときわ引き立てる弘前公園には、銘木も数多く存在している。二の丸与力番所から東内門の間には明治15年(1882)に植えられた「弘前公園最長寿のソメイヨシノ」。三の丸北側の緑の相談所・中庭の「日本一太いソメイヨシノ」も樹齢120年超と推定される。「二の丸大枝垂れ」は大正3年(1914)に在弘宮城県人会から寄付された園内最大のシダレザクラだ。時期を同じくして植栽されたのは本丸の「弘前枝垂れ」と棟方志功が命名した「御滝桜」である。
「花より団子」とはよく言ったもの。桜花よりも時として注目を集めるのが食。大正時代に話題となったものの一部をご紹介。
まずは大正5年(1916)に二の丸に開店し、西洋一品料理やビールを提供した「末広」。翌年には角長仕出し店が同じく二の丸に西洋館を新築して「公園バー」を開業。生ビールや洋食、親子丼や牛めしもメニューに見える。観桜会期間中、二の丸には野崎食品による「カルピスホール」や「コーヒー店」、百石町にあった「不老園」の喫茶店、公園看守舎宅前の「大和館食堂出張店」は洋食や日本酒、特にビールの販売で賑わっていた。西濠には「蓮池亭」があり、鮎の鮓(すし)を提供。大正8年(1919)の第2回の観桜会頃から園内にはバナナのたたき売りやガサエビ売りが目立つようになった。
サーカスにお化け屋敷、見世物小屋に津軽そば。数々の出店も花見に賑わいを添える。弘前公園に露店が出現したのは明治28年(1895)。公園として一般開放された城址を訪れる遊楽客をターゲットにした出店である。明治32年(1899)4月の招魂祭では二の丸から三の丸に渡って露店が立つようになる。観桜会が開催した大正時代にはサーカスや芝居、見世物に自転車レースなどの催しなどで賑わった。
しかし、戦争が出店の様子を変えてしまう。カフェー街が二の丸から四の丸へ移転させられ、大衆食堂でも酒の販売を禁じられた。そして昭和18年(1943)、ついに観桜会は中止された。昭和21年(1946)、戦後間もなくの出店は闇市まがいの露店が暴利をむさぼりドブロクが横行、香具師が婦女子に絡んだり傷害沙汰が絶えないなど、混沌としていた。それらを市が管理し、現在のような形となったのは昭和30年代の事である。
県内外から多くの観光客が訪れる紅葉の名所「中野もみじ山」。江戸時代後期の旅行家・菅江真澄は寛政10年(1798)の秋にこの地を訪れ、その光景を、こう記した。
「野原・切り立った崖・岩の峯がそびえたつ頂上・小さな坂などの木々、高いのも低いのもすべて紅葉し、落ちる水が岩を飲み込んで激しく流れる風情、はらはらと散る紅葉に夕陽が映る」。
津軽三不動の一つが祀られている中野村は人々の信仰を集めていた。中野もみじ山は不動堂の境内とされ、黒石藩はもとより弘前藩の藩主もたびたび参詣に訪れながら紅葉を鑑賞していたようだ。さらに紅葉の名所として発展させたのは、黒石藩から弘前藩へ養子に迎えられた9代藩主寧親である。享和2年(1802)9月26日、中野を訪れた寧親は美しい情景に心動かされ、翌年4月13日、京都から取り寄せた楓の苗木を不動尊に奉納し、また、自らの手で3本の楓を植樹した。
秋の弘前公園を彩る「弘前城菊と紅葉まつり」は、秋の紅葉を楽しむ「観楓会」に合わせて、育てた菊を持ち寄る品評会が行われるようになり、昭和37年(1962)、「菊ともみじまつり」として開催されるようになったのが始まり。
江戸時代から、春の桜見と秋の菊見は地域を問わず人々の楽しみだった。江戸では菊花で船や鳥を造る遊びが盛んとなり、名古屋の黄花園が菊人形を全国的に普及させた。
弘前城菊と紅葉まつりでは約30体の菊人形と着物姿の衣装人形10体で舞台を演出。着物に見立てた小菊は7日くらいで着せ替えが行われ、会期中に印象の異なる人形を楽しめる。
上記の参考文献・資料
『新編 弘前市史 通史編4』 新編 弘前市史編纂委員会:編(弘前市:発行)、『私説 弘前城物語』 田澤正:著(北方新社:発行)、『失われた弘前の名勝』 田澤正:著(北方新社:発行)『ふる里読本「わたしたちの黒石」 第4集』 三上英治:編(黒石市民財団:発行)、『弘前さくらまつり調査報告書』 (弘前大学人文学部人文学科人間行動コース)、『津軽ひろさき・おべさま年表』(弘前観光コンベンション協会)
上記の参考HP
弘前市みどりの協会
取材協力
弘前観光コンベンション協会