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江戸時代から近代にかけての弘前を中心とした生活図鑑

行楽ノ編

100年を超える「弘前公園最長寿のソメイヨシノ」

100年を超える「弘前公園最長寿のソメイヨシノ」

涼を愉しむ行楽

津軽のお殿様も楽しんだ花火

「たまや~、かぎや~」の掛け声と、花火の歴史

万治2年(1659)、大和(奈良)出身の弥兵衛が火薬をおもちゃの花火にすることに成功し、日本橋に「鍵屋」を構えた。弥兵衛が考案した花火は、葦などの茎に火薬を詰めたロケット花火で、江戸で大流行。弥兵衛は一躍花火の第一人者になった。
文化7年(1810)、鍵屋の番頭が暖簾分けを許され、「玉屋」を創業。夜空を舞台に繰り広げられる2大ブランドの競演に、観客は「たまや~、かぎや~」と歓声を上げながら、江戸の夜空に咲く花を愛でた。

慰霊水神祭から始まった、江戸の花火大会

8代将軍吉宗の時代、疫病による死者の慰霊と悪病退散祈願のため、享保18年(1733)、隅田川で水神祭を行った。この時に打ち上げた花火が好評で、以来、隅田川が川開きになる旧暦5月28日から3ヶ月間、連日花火を打ち上げるようになった。川岸には食べ物屋、川面には屋形船がひしめき、両国橋の上は鈴なりの見物客で賑わったという。
とはいえ、当時の花火はオレンジ1色で、現在のように円形に花開いたり、カラフルな花火が誕生するのは、化学薬品の技術が進む明治以降のことである。

千年山で開かれた、お殿様の花火観賞会

津軽における花火の最も古い記録は、『弘前藩庁日記(国日記)』寛文12年(1672)、4代藩主信政が夕食後に内馬場で家臣たちと花火を楽しんだというもの。
元禄7年(1694)7月13日の記事には、信政が三男・与一と共に、藩の行楽地・千年山に出かけ、茶の湯と花火見物を楽しんだ記録がある。何種類もの花火の名前と共に、当日の献立や御菓子の記述もある。この日は家老、医者、料理人のほか、道々の見張り番を含め約160人という大人数だったことから、津軽のお殿様にとっても花火見物は、夏の一大イベントだったことがうかがえる。

花火を楽しんだ千年山とは?

藩政時代、江戸城詰めの大名の間では全国の景勝地の情報交換が盛んに行われ、大名たちは競うように国元に大規模庭園を造らせた。貞享元年(1684)、信政が現在の小栗山に造らせた千年山は、藩主と家族のための行楽地。山あり谷ありの広大な敷地には12の茶亭があり、岩木山を眺められる景勝地であったという。当時の絵図が残っていないため詳細は不明だが、「三河国八景之図」をモデルにしたともされる。

三河国八景之図

三河国八景之図(知立市歴史民俗資料館蔵)

風雅な遊び、蛍狩り

日本最古の和歌集『万葉集』にも登場するほど、日本人とは馴染みが深い蛍。平安時代から上流階級には蛍を観賞する風習があったが、庶民に広まったのは江戸時代に入ってから。蛍狩りの時期は立夏から1ヶ月くらいで、うちわや笹竹などで蛍を捕まえ、蚊帳の端切れや竹細工の虫かごに入れて観賞した。
中泊町では毎年7月中旬に中里川上流のホタルの里で、「ホタルまつりinなかどまり」が開催される。夕闇が迫る頃、少しずつ灯りが増え、やがて光が乱舞する幻想的な光景は、美しい日本の原風景ともいえる。

ゲンジボタル

「ゲンジボタル」は、体長約1.5センチで日本産最大の蛍。腹端に発光器をもち、夜強く光る。幼虫は清流に棲む。

千年山での行楽料理

信政が、元禄11年(1698)10月19日に千年山へ遊びにいったときの料理。

煮染

た満(ま)ご
わらび
御菜園※
之人参牛房

御汁

た満(ま)ご
わらび
御菜園※
之人参牛房

御食(ご飯)

引而


香物

組焼

味噌漬鮭
な満干か連い(生干しカレイ)

御肴

こぐしそい
ふろふきかぶ
御さゑん※(菜園)

※御菜園/津軽4代藩主信政の頃、藩の御台所「菜園所」があった。「大鰐菜園所」では温泉熱を利用した促成栽培も行われていた。
※曳而/または引而。ひいて。膳組以外の余分な料理で数種類出される。本膳の膳組に記されることは少ない。

災害の見本市のような江戸時代

復興への道しるべ

飢饉、火山噴火、火事、大地震。江戸時代は「災害の見本市」と言われるほど多くの災害に見舞われた。なかでも安政年間は激動の時代であった。安政元年(1854)11月4日に東海地震が、翌5日には南海地震が起こり、大阪では大津波が発生し数千人の死者が出た。さらに翌年の安政2年(1855)には、江戸で「安政の大地震」が起こり数千人が亡くなるという災害続きとなった。安政3年(1856)発行の『安政見聞誌』(全3冊)は、地震の克明な記録と共に挿話や瓦版などが収録されたルポルタージュ。編者は仮名垣魯文、画は江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人・一勇斎国芳で、地震大国と呼ばれる日本が、震災と復興を繰り返して来た歴史の一端を垣間見ることができる。


『安政江戸地震』野口武彦・著(ちくま新書・発行)/『実録大江戸壊滅の日』荒川秀俊・著(教育社・発行) /『大江戸ものしり図鑑』花咲一男・監修(主婦と生活社・発行)/立教大学図書館HPより

弘前藩の防災(例)

「山を大切にするは萬民性命を保つ事の元なれば」 (『津軽信政公事績』より)

火を得るにも家屋を建てるにも木は必要であり、また、山林の荒廃は水源を絶つことに繋がる。4代藩主信政の時代から藩は、先の信政公の意を汲むべく山林の保護や植林に力を注いだ。西からの強風と砂塵から人々の生活を守る屏風山への植林は信政の治世に始まり、以来200年以上に渡り行われた。

白神の森 遊山道

藩政時代、農業用水の確保のため伐採が禁じられ、保護されてきた「白神の森 遊山道」。白神山地同様の景観が残る。

生命を守り津軽を発展させた治水 (『津軽信政公事績』より)

一瞬にして命も家屋も飲み込む洪水への対策は領民の生命を守り新田を開発する上で欠かせない事業だった。寛文7年(1667)には道路の幅や河川との距離を定める令が出され、現在見られるように、川原には柳が植えられた。氾濫を繰り返す岩木川への大々的工事は延宝2年(1674)に施されて以降、補修や堤の普請などたびたび手が加えられる事となる。

廻椻大溜池

津軽富士見湖の名で親しまれている「廻椻大溜池」は4代藩主信政が自然に出来た貯水池に堤防を築き、用水池として整備したことに始まる。

上記の参考文献・資料
『安政江戸地震』 野口武彦:著(ちくま新書)、『大江戸ものしり図鑑』 花咲一男:監修(主婦と生活社)、『江戸風物詩』 川崎房五郎:著(光風社出版)、『絵本江戸風俗往来』 菊池貴一郎:著(平凡社東洋文庫)、『江戸の庶民生活・行事辞典』 渡辺信一朗:著(東京堂出版)、『ヴィジュアル百科江戸事情 第一巻生活編』 NHKデータ情報部:編(雄山閣出版)、『西津軽郡史』 佐藤公知:編(西津軽郡史編集委員会)、『お江戸でござる 現代に活かしたい江戸の知恵』 杉浦日向子:監修(ワニブックス)、『失われた弘前の名勝』 田澤正:著(北方新社)、『つがる古文書こぼれ話』 弘前市立弘前図書館後援会:編(北方新社)

取材協力
中泊町役場・革秀寺(器)