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江戸時代から近代にかけての弘前を中心とした生活図鑑

食ノ編

東奥津軽山里海観図

武士の日常の食事/ご飯は、大豆や小豆を入れて米を節約。魚はめったに食べられなかった。

三百年以上前から栽培されていた
大鰐温泉もやし

4代藩主信政の頃、大鰐には藩主専用の野菜園「大鰐菜園所」があり、この頃からすでに温泉熱を利用した促成栽培が行われていた。『弘前藩庁日記(国日記)』によると、大鰐菜園所からは多くの初物が長年にわたり献上されていたことがわかる。季節に先駆けて届けられる作物は歴代藩主たちを喜ばせ、時には飛脚によって遠く江戸屋敷まで運ばれることもあった。

大鰐温泉もやし

長い時をかけ受け継がれてきた「大鰐温泉もやし」。

信政の母「久祥院(きゅうしょういん)」も愛した、大鰐菜園所

この菜園所を大変気に入っていたのは、3代藩主信義(のぶよし)の側室で、信政の生母「久祥院」である。久祥院は、書や和歌、琴、活け花、お茶などの心得にも優れた才色兼備の女性で、衣服や身の回りの調度品に菊の模様を好んで用いたことから「菊御前」とも呼ばれた。信政は久祥院をことのほか敬愛し、初物は必ず久祥院に差し上げたという。
『弘前藩庁日記(国日記)』延宝5年(1677)にも七草粥の行事が見られるが、元禄5年(1692)には、大鰐菜園所から久祥院に温泉熱で栽培した「七草」が届けられている。献上の品は、夏菜、葉にら、志の葉、芹、ふきのとう、青菜、もやしの7種類であった。

「サワ」にもやしの種を蒔く

「サワ」にもやしの種を蒔く。

サワ」に温泉水をかける

「サワ」に温泉水をかける。

受け継がれて行く、大鰐温泉もやし

時代と共に姿を消した大鰐菜園所だが、今もなお当時とほぼ変わらぬ栽培方法で作られているのが、「大鰐温泉もやし」である。豆もやしとそばもやしの2種類があり、町内に6軒しかいない生産者たちが伝統の味を守っている。
「大鰐もやし組合」組合長の藤田良一さんのお宅を訪ね、奥さんのキセさんに作業の様子を見せていただいた。もやしに光があたると光合成によって変色してしまうため、作業小屋の中は昼間でも真っ暗。作業は、深夜に行うという。「サワ」と呼ばれる床の中に温泉水をかけ、もやしの種(豆もやしは大鰐地域在来大豆の「小八豆」、そばもやしは青森県の在来品種「階上早生」)を蒔く。4日ほどで発芽するので、再び温泉水をかける。1週間後、収穫時期を迎えたら掘り上げたもやしをぬるめの温泉水で洗い、すぐに温泉を冷ました水でしめて出荷する。「一番大変なのは温度管理。化学肥料や農薬、水道水を使わず、温泉の力だけで栽培する方法は昔から全く変わらない」と、キセさん。平成17年(2005)、農業後継者育成のために町が公募し、もやし栽培を始めた山崎光司さん、綾子さん夫妻の指導にもあたっており、藩政時代から続く技術は次の世代へと受け継がれて行く。

温泉水でもやしを洗う。

温泉水でもやしを洗う。

「サワ」から収穫されるもやし

「サワ」から収穫されるもやし。

もやしの収穫。

もやしの収穫。

大鰐もやし組合」組合長夫妻

「大鰐もやし組合」組合長の藤田良一さんと奥さんのキセさん。

上記の参考文献・資料
『みちのく食物誌』木村守克:著(路上社)

取材協力(2009年当時)
大鰐もやし組合/大鰐町農林課/青森県中南地域県民局