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江戸時代から近代にかけての弘前を中心とした生活図鑑

食ノ編

東奥津軽山里海観図

武士の日常の食事/ご飯は、大豆や小豆を入れて米を節約。魚はめったに食べられなかった。

現在も馴染みの多い藩政時代の料理。

質素だった藩士の日常食

弘前藩士の食生活については、日常の出来事を記録した日記のようなものが現存しないため、明らかなことはわかっていない。だが、中級・下級武士の家計は慢性的に赤字で、そのため屋敷の裏庭を畑にするなど、自給自足をはかる場合も多かったようだ。
藩政時代初期の明暦期〜延宝期(1655〜81)には、「朝食は黒米(玄米)と鏡汁(実を入れない味噌汁)だけで済ました。夜食では、ぐつ煮(味噌の熟し豆腐)に花鰹をかけて、香の物を添えるのがご馳走だった。干魚や焼魚があっても一汁一菜を守った。大豆飯、小豆飯もよく炊いたが、祝い事ではなく、米の節約が目的だった」(『女人津軽史』)ともあり、かなり質素な食生活であったことがうかがえる。藩政時代初期(1664〜75年)の藩法を集めた『津軽家御定書』寛文8年(1668)3月12日の条で、日常の食事は一汁三菜と規定している。これは、対象が武士か町人かは明確ではないものの、ご飯と汁のほかにおかずは漬け物を含めて3品ということになる。また『弘前藩庁日記(国日記)』享保9年(1724)10月15日の条には、「常々食は一汁一菜」と記されている。
幕末になると生活はさらに困窮さを増し、質入れや内職をして麦や粟を買い、かろうじて生活を立てたという(『津軽藩政時代の生活』)。

中級武士の台所

中級武士の台所(『女諸礼綾錦』)

上級武士の台所

上級武士の台所(『早見献立図』)

豪商「金木屋」のまかない料理

江戸時代中期以降、藩財政の窮乏により次第に生活苦にあえぐ武士に対し、豪商といわれる有力町人は、逆に裕福な暮らしぶりとなっていく。山一金木屋2代・武田又三郎(諱・俳号:玉之)は、一代で藩の御用達になった富商で、文化元年(1804)には亀甲町に質店を開店、同2年には賀田に家を買い求め造酒業を開いた。3代目・又三郎(諱:敬之)が書いた『金木屋日記』は、天保8年(1837)から慶応元年(1865)に至る日記で、当時の暮らしを知るうえで貴重なものとなっている。
安政3年(1856)6月26日の同日記には、「今日別荘柱立致し候」とあり、大工たちをねぎらって料理を振る舞っている。「昼過ぎ一杯呑ませ候 砂鉢玉子巻 かすべ するめかんな懸け油煎 干し鱈ささげ田夫一丼 鯨木瓜なます一丼 吸い物代わり賄鯨にひる〆」とある。ちなみに、祖父・吉兵衛が伝え残した「山一質店自分之掟」には、「朔日、十日、廿日には其の時の下直なる生肴見合わせ相い調食べさせ申す事」「平生は汁、漬物一しきの膳菜に限り申すべき事」とあり、一家はこれに忠実に10日に一度しか生魚を食べないように倹約して暮らしていたようだ。そうしたことからみれば、この日の献立は非常に豪華なものだったといえる。

金木屋」の別荘柱立ての際の職人へのまかない料理。

「金木屋」の別荘柱立ての際の職人へのまかない料理。
❶鯨きゅうりなます。※「鯨」は尾の皮をさらした、通称「おばけ」を使用。
❷干し鱈
❸玉子巻き・かすべするめかんな懸け油煎※「油煎」は「油炒め」のこと。

「金木屋」の接待料理と、津軽の郷土料理

安政2年(1855)1月18日には、下町同心や庄屋を招いて次のような料理でもてなしている。「御酒肴五種 吸い物一度夜食 平皿 手製目巻 到来の平目煮付け 鯡の椛焼小串 伽羅ふき〆砂鉢積合 なまこ丼 〆貝丼 到来鯖鮓 鮭の鮓丼 かすべ同積入いも初茸こんにゃく 大平〆五種 外にあま漬け丼 きぬた付金頭初茸吸い物 御皿鯡 御平かすべ青菜こんにゃく初茸〆」。
同日記には調理法などが記載されていないことや、当時と現代の食材の違いなどから、献立名を見ても想像がつかない料理もあった。しかし、あらためて器に盛りつけた料理を眺めてみると、藩政時代の料理の多くは今も馴染み深いものが多く、津軽の地で受け継がれてきたことがわかる。

「金木屋」が下町同心や庄屋など、村の顔役を招いた接待料理。

「金木屋」が下町同心や庄屋など、村の顔役を招いた接待料理。
❶手製目巻平目の煮付け※「目巻」は竹の子の若布巻きとした。また、「吸物」(きぬた付金頭初茸)も記載されていたが、都合によりカットした。
❷あま漬け※「あま漬」は本来、ご飯を粗くすりつぶし、砂糖と酢を混ぜたものを山菜にかけ、一晩置いたもの。ここでは「砂糖漬け」とした。
❸かすべ・かすべつみれ・こんにゃく・いも・初茸・青菜
❹なまこ 
❺鯖すし鮭のすし
❻〆貝※「〆貝」の貝はおよそ鮑のことをいう。
❼にしんの椛焼き・伽羅ふき

「殿様の料理人」

■郷土食物史家 木村 守克

4代藩主信政の時代、元禄10年(1697)の分限帳によると、御台所には御台所頭以下料理人や食器具を管理する人、帳付けの人や小者など81人の人たちが働いていた。
料理人の身分には格付けがあって、殿様の料理を作る人は御料理人と呼ばれていた。その下が下(並)料理人で、さらにその下には助手のような板の間の者という人たちがいた。他に仕出しの食事を作る軽い身分の仕出し料理人(賄人)といわれる人たちもいた。この時には御料理人は4人、下料理人は8人、板の間の者は6人がいた。 御台所は忙しかったようだ。殿様の食事はもちろんのこと、出仕の人たちの食事も作った。そして度々の宴会、儀式や行事の料理作り、江戸藩邸への食料の供給、幕府やその要人への月々の音物(贈物)の調製、魚鳥を始め様々な食品の加工、貯蔵など多くの仕事があった。
御台所の御料理人は優れた技量の人たちであったようだ。信政は幾人もの御料理人の鶴の包丁式というものを高覧している。この儀式は誰でも行えるものではなく、その料理流派の許された者だけが行えるものといわれる。これは鶴を包丁刀と真名箸で瑞祥の形に切り並べていくものである。
その1人に小川金太夫という料理人がいたが、日頃から料理に熱心であると褒美を与えている。ところが2年後には料理の出来が良くないと殿様に叱られ、翌年には「日頃勤め方御意に入り申さず」と江戸で解雇されている。
他方、石火屋次五右衛門という人は、3代信義の時から60年にわたって御料理役を勤めてきたベテランで、推定では70歳を越えていたのではないかと思われる。信政に隠居を認められ、今の年金のような5人扶持(玄米で1日2升5合)を与えられ、さらに長男がその後を相続している。料理人にも殿様に生かされた人とそうでない人があったようだ。

藩政時代の文献に見られる、現在に伝わる郷土料理。

※天保8年=1837年、文久元年=1861年、文化7年=1810年


藩政時代の文献には、現在も馴染みのある料理が数多く見受けられる。「山一金木屋又三郎日記・抜粋編」(天保8年〜文久元年の記録)には、例えばタラ料理では「ザッパ汁」「タラの刺身」「タラの味噌漬け」「タラの子の煮付け」、その他の魚介料理では「サバのすし」「ハタハタのすし」「かすべぬた」「ブリの粕漬け」「干し大根のにしん切り込み漬け」等々。漬物では「豆漬け」「大根の糠漬け」他。甘味等では「しとぎ」「干し餅」「もろこし餅」他。また、江戸時代の紀行家「菅江真澄」の文化7年の日記に「粥の汁」(けの汁)の記事が見られる。これらのことからも、現在わたしたちが食している多くの郷土料理、また原型はすでに存在し、古今問わずに津軽の人々の舌を楽しませているようだ。

そばもやし

そばもやし/「大鰐菜園」で栽培・献上した記録(もやしと記述)が残る。

鮭飯すし

鮭飯すし/鱈と同じく貴重だった鮭の保存食。

うどの酢味噌和え

うどの酢味噌和え/うどは「大鰐菜園」でも栽培されていた食材。料理も様々。

「津軽料理遺産・伝承店」で古くから伝わる味覚を楽しもう。


「津軽料理遺産」とは?

津軽地方の風土や気候に育まれた食材や、独特の調理方法によって作られる家庭料理のうち、今も一般家庭や飲食店等に伝承されている料理の中から、後世に受け継ぐべき料理として登録したものが「津軽料理遺産」である。

津軽料理遺産・伝承店とは?

昔から親しまれてきた津軽の味や食文化を伝承し、お客様に対して料理の特長や歴史を説明するお店のこと。郷土料理店、割烹、そば店、居酒屋などがあり、詳細はオフィシャルウェブサイトで確認できる。

どこで食べられるの?

津軽料理遺産は「津軽料理遺産認定・普及委員会」が認定した「津軽料理遺産・伝承店」で提供している。2023年3月現在、139種類が登録されている「津軽料理遺産」のうち、提供する料理や時期は店舗によって異なる。

貝焼き味噌

貝焼き味噌

けの汁

けの汁

豆漬け

豆漬け

現在、津軽料理遺産として認定されている料理や、津軽料理遺産・伝承店の詳細については、オフィシャルウェブサイトにて紹介している。

お問い合わせ
日本ふるさとごはん協会
代表/坂本貴秀
https://tsugaru-ryouriisan.com

上記の参考文献・資料
「弘前藩庁日記(国日記)」(弘前市立弘前図書館:所蔵)/『津軽藩政時代の生活』黒滝十二郎:著(北方新社)/『津軽家御定書』国立史料館:編(東京大学出版会)/「山一質店自分之掟」(杉山雄一:所蔵)/「山一金木屋又三郎日記・抜粋編」斎藤昭一:解読・編修(青研)/「藩政時代商家の暮らし 賀田 武田又三郎日記から⑧」花田要一:著(陸奥新報)『女人津軽史』山上笙介(北の街社)

取材協力
郷土史家 田澤正(高照神社 献立資料解読)/青森県中南地域県民局