津軽における花火の最も古い記録は寛文12年(1672)で、4代藩主信政が夕食後に内馬場で家臣達と花火を楽しんだ、というもの。少し下って元禄7年(1697)7月13日の記録には花火の名前まで記されている。絵図がないのでデザインまではわからないが、風流な名前に想像が広がる。例をあげると、ぼたん・桜花・白菊・もくれん花・水仙花・あおい・山吹・糸桜・糸柳など花や木にちなむものが多い。他に、大風・大雨・雪・流星・車火・網火など、動きを想わせる名前もある。このとき信政は、家老をはじめ足軽や料理人など131人の家来を連れての観覧だったようで、いまの小栗山にあったとされる千年山で茶の湯と花火を楽しみ、夜10時ころに上機嫌で帰ってきたという。
ちなみに当時の花火の色は木炭が燃える色のオレンジ一色だけのようだが、充分に明るく華やかに感じたことだろう。また、戦国時代には戦の道具だった火薬が、泰平の世には夜を美しく彩るようになったことに、身分を問わず、隔世の感を抱いたかもしれない。
もちろん規模は違うが、庶民も花火を楽しんでいた。ただ、楽しみが過ぎて火災に至るのを防ぐために、元禄15年(1702)あたりからは屋敷内での花火を禁じるお触れが何度か出たようだ。結局人々は、川原や南溜池(いまの南塘グラウンド)で花火を楽しんだという。
相撲好きなお殿様は多い。武士である限り、強いものを礼賛するのは自然な心情でもある。
ここ弘前藩でも、相撲を奨励し定期的な相撲大会を行っていた。相撲にまつわる記録も多い。勇武を好んだ3代藩主信義(のぶよし)以降、たくさんの力士が召し抱えられたという。4代藩主信政は、貞享元年(1684)に城内西の郭に新設した相撲場で相撲を観戦し、相撲奉行まで設置した。元禄10年(1697)には徒町・徳田町の川原で勧進相撲が行われた。5代藩主信寿は、江戸で人気の関取を呼び寄せて、西の郭で高覧したという。9代藩主寧親(やすちか)は文化8年(1811)に稽古場を造り、翌年に相撲を高覧した。文政2年(1819)には富田でも相撲の興行があったという。
また、城下の外、近隣の村々でも相撲が盛んだった。土俵は川原や神社の境内に造られ、旧暦6月中旬から8月まで、毎晩のように力自慢の若者たちが相撲をとった。氏神の祭りの前夜祭にも必ず行われたという。豪商金木屋の日記には、お盆に行われた相撲大会の際、酒に酔った見物人による喧嘩に辟易している様子が記されている。相撲を見ることも相撲をとることも、どちらも庶民が心底楽しめて開放的になれる
大事な娯楽だったと言えるのではないだろうか。
江戸の芸能文化の花形、歌舞伎。慶長12年(1607)に出雲の阿国(おくに)が江戸城で歌舞伎を上演したのを契機に、寛永元年(1624)に江戸に常設芝居小屋ができ、爆発的人気を得ていく。あまりの人気の過熱ぶりに、寛永6年(1626)には風紀が乱れるという理由で、女歌舞伎を禁じたほどだった。
そして弘前藩でも3代藩主信義のとき、正保3年(1646)に初めての歌舞伎が上演された。ちなみに延宝3年(1675)にも下鍛冶町(いまの桶屋町)で女歌舞伎が5日間、興行したと記録にある。江戸では女歌舞伎は禁じられていたはずだが、地方ではその通りにいかないことも多かったのだろう。
4代藩主信政のとき、藤八太夫という者に許可を与え、ついに元禄4年(1691)、弘前藩で初めての芝居小屋が茂森町に建てられた。信政としては、庶民というものは無学で文盲、礼節を知らないものだから、史実や事件を題材とした歌舞伎で教育しよう、という意図があったようだ。
歌舞伎とは異なるが、延宝2年(1674)、城中の書院前白砂に能舞台が完成し、初めての能楽が上演された。なんと藩士・町人にも見せたという。その後も御書院菊の間でも能楽を町人に見学させたり、下鍛冶町・大工町で勧進能が開かれたりした。芸能を通じて文化振興の種まきをしようと、お殿様がずいぶん頑張った時代なのかもしれない。
日本語として定着したカルタは、そもそもポルトガル語で札・カード・手紙といった意味の言葉である。16世紀にポルトガルのカード遊びが日本国内向けにアレンジされ「天正カルタ」が生まれた。たちまち全国に広まった天正カルタは賭博の対象となったため、しばしば禁止令が出され、ついに元禄年間(1688〜1704)の終わり頃には製造販売まで禁止となる。これに替わって登場したのが「ウンスンカルタ」である。遊戯性を高めたものだったが、これもまた賭博の道具となり禁止。そうして文化年間(1804〜17)の頃には日本的な趣向の「花札」が登場する。新しいカルタ遊びの誕生とその禁止令は、いたちごっこの様相を示していたが、ここでも「江戸花札カルタ禁止令」が天保12年(1841)に出され、カルタ札はもちろん賭博に関わる道具一切が売買禁止となった。
一方で読み札と取り札によるいわゆるカルタは賭博のカルタとは一線を画する。百人一首カルタは通常の遊び方のほかに「坊主めくり」もその頃から楽しまれていた。江戸後期には「いろはかるた」が考案され、ことわざの教育をも担う遊びとなった。
弘前藩は江戸から遠く離れていたためか取り締まりがゆるく、イギリスのトランプが持ち込まれ、静かに定着していった。「ゴニンカン」というトランプ遊びもそうして受け継がれてきたゲームのひとつだが、いまや五所川原市を中心とした津軽に留まらず全国に広まっている。
ロシア船の南下など日本をめぐる国際情勢が激変した18世紀末、その防止策として、幕府は寒さに慣れた東北藩士を蝦夷地(現・北海道)に派遣(1807年)。その多くは弘前・会津藩士であった。
しかし、その多くがビタミン不足による不治の病「浮腫病」(※1)の犠牲となり、幕府は安政2年(1855)の再派遣時に薬効性の高い「珈琲」を配給した。長崎・出島の蘭学者や特権層を除くと、日本で最初にコーヒーを飲んだ庶民は弘前藩士であり、彼らの命の綱は紛れもなく「珈琲」であったといえる。
津軽の先人たちが見舞われた悲劇を偲び、その御霊にとりつかれたかのように「藩士の珈琲」を幕末当時の淹れ方で再現した成田専蔵氏。その想いの原点を1992年に自らが建立した稚内市・宗谷公園の慰霊碑に示した。そして、コーヒーを愛し、研究・提供に努める立場として故郷や家族を想い、コーヒーを口にすることなく亡くなった先人の無念さ、コーヒーを貴重な薬として「ありがたく」服用したであろう先人たちの心情を、琥珀色の1杯に心を込めて注いでいる。「歴史のロマン溢れる城下町・弘前から人と人の輪を育み、日本地図全体を珈琲色に染めたいですね。」成田氏の夢と情熱は未来へと続く。
上記の参考文献・資料
『奥民図彙』青森県立図書館:編・発行/『つがる古文書こぼれ話』弘前市立図書館後援会:編(北方新社)/『弘前藩』長谷川成一:著(吉川弘文館)/『江戸の遊び事典』河合敦:監修(学習研究社)/『続津軽覚え書』弘前市立図書館:編・発行/『失われた弘前の名勝』田澤正:著(北方新社)/『津軽ひろさき・おべさま年表』津軽ひろさき検定実行委員会:編(弘前観光コンベンション協会)/『週刊江戸』No3・No8・No9(デアゴスティーニ)/『ヴィジュアル百科江戸事情・第一巻生活編』NHKデータ情報部:編(雄山閣出版)/ゴニンカン世界選手権大会HP/『水元村誌』折登 岩次郎:著(鶴田町)/『藩政時代商家の暮らし・賀田 武田又三郎日記から』花田要一:著(陸奥新報)/『日本の伝統を読み解く暮らしの謎学』岩井宏實:著(青春出版社)