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江戸時代から近代にかけての弘前を中心とした生活図鑑

祭・民族ノ編

東奥津軽山里海観図

『東奥津軽山里海観図(とうおうつがるさんりかいかんず)』の「祢布多祭」の図(県立郷土館提供)。元治元年(1864)に清白閑人(せいはくかんじん)が描いた。

弘前ねぷたの変遷

ねぷたの起源「考」・移変り

ねぷたの起源には諸説あり、「坂上田村麻呂が、蝦夷(えぞ)をおびき出すために燈籠を用いた」、「為信が京都の盂蘭盆会(うらぼんえ)に大燈籠を出した」などの言い伝えがある。しかし、現在では、夏の農作業の妨げとなる眠気や怠け心などを水に流す「眠り流し」の農民行事や、七夕祭の松明(たいまつ)流し、精霊流し、盆燈籠などさまざまな習俗が独特の変遷をたどりながら、ねぷたの原型ができたのではないかという説が有力となっている。
ねぷたが初めて記録に登場するのは、享保7年(1722)の『弘前藩庁日記(国日記)』である。5代藩主信寿(のぶひさ)が、紺屋町の織座(おりざ)で「祢ふた」を高覧したとある。弘前藩江戸定府の藩士・比良野貞彦(ひらのさだひこ)が著した『奥民図彙(おうみんずい)』の「子(ね)ムタ祭之図」天明8年(1788)には、四角形や長方形の燈籠が描かれているが、時代と共にねぷたの形も変化したようだ。文化・文政期に入ると、経済力を持った町人が増え、町人文化が華開く。弘前藩は十万石に昇格し、天守閣も再建されるなど、城下にも華やいだムードが満ちていたと思われる。そうした背景もあってか、この頃から組(人形)ねぷたが出現し、大型化が進んだようだ。

奥民図彙

『奥民図彙(おうみんずい)』の「子ムタ之図」。弘前藩士の比良野貞彦が天明8年(1788)頃に書いたもので、図版として最も古い。高い燈籠を掲げている。

その後、明治維新、廃藩置県といった激動期を経て、「開き」の入った扇燈籠が作られるようになった。城下町の気風を反映した勇壮な武者絵が祭りムードを盛り上げたこともあり、以来、扇ねぷたが主流となっていく。大正3年(1914)には、市内で初めて合同運行が開催された。昭和の中頃になるとバッテリーが普及し、照明はろうそくから電気に変わり、次第に現在の姿に定着したようだ。
「弘前ねぷたまつり」は、8月1日に開幕。今年は、過去最多となる82台のねぷたが出陣し、城下町を練り歩く。

分銅組若者日記

天保2年(1831)から明治4年(1871)に、黒石藩の町火消し「分銅組」の若者が記した「分銅組若者日記」(篠村正雄蔵・黒石市教育委員会提供)。黒石のねぷた絵が描かれてある。

小島左近の描いたねぷた絵

弘前藩士、小島左近の描いたねぷた絵(弘前市立博物館蔵)。蝋(ろう)描きされており、ねぷた絵ということがわかる。

祢婦太之図

『津軽風俗画巻(つがるふうぞくがかん)』の「祢婦太之図」(水沢忠明蔵・県立郷土館提供)。文久年間(1861〜64)に弘前の平尾魯仙(ろせん)が書いたねぷた運行の図。

ねぷた喧嘩の図

竹森節堂が描いた「ねぷた喧嘩の図」(弘前市立博物館蔵)。※竹森節堂/明治29年(1896)〜昭和45年(1970)

本町有志が運行した大佞武多

明治39年(1906)の扇佞武多。藩祖為信公の没後3百年祭に、本町有志が運行した大佞武多。

明治館

高さ3丈9尺(約11.8メートル)、幅1丈8尺(約5.45メートル)の組佞武多。町道場「明治館」(鷹匠町)が明治41年(1908)に製作した。この年御来弘の皇太子(大正天皇)の台覧に供するために製作。

※上記写真2点「ふるさとのあゆみ弘前Ⅱ」(編者:山上笙介、発行者:高橋彰一、発行所:津軽書房)

上記の参考文献・資料
「史料にみる『ねふた』」田澤正:著(北方新社:発行)/「ねぶたの歴史」藤本本太郎:著(弘前図書館後援会)/「改訂 津軽の祭りと行事」船水清:著(北方新社:発行)/「津軽藩政時代の生活」黒滝十二郎:著(北方新社:発行)「菅江真澄遊覧記」内田武志・宮本常一:編訳(平凡社:発行)/「改訂 津軽の祭りと行事」船水清:著(北方新社:発行)/「青森県の民間信仰」小舘衷三:著(北方新社:発行)/「弘前八幡宮祭礼詳解」田澤正:著(北方新社:発行)

上記の取材協力
弘前市立博物館・弘前市立弘前図書館