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江戸時代から近代にかけての弘前を中心とした生活図鑑

祭・民族ノ編

東奥津軽山里海観図

『東奥津軽山里海観図(とうおうつがるさんりかいかんず)』の「祢布多祭」の図(県立郷土館提供)。元治元年(1864)に清白閑人(せいはくかんじん)が描いた。

1682年に始まった
弘前城下の「山(やま)」祭り。

松前や秋田からも見物客が訪れた、弘前八幡宮例大祭

「弘前八幡宮」は弘前城築城にあたり鬼門封じとして慶長7年(1612)に丑寅(北東)の方角に創建。以来、弘前藩の総鎮守として崇拝されてきた。弘前八幡宮祭礼は、主が参勤交代を終えて無事に帰城した喜びを城下の人々と分かち合いたいと、天和2年(1682)8月15日、4代藩主信政(のぶまさ)が初めて挙行。その祭礼の時に、各町会の若衆によって初めて山車(だし)が繰り出された。運行は藩主導で行われ、費用は藩費で賄った。その盛大さは他に例がなく、北海道の松前や秋田からも数万人の見物客が押し寄せたという。

紙本著色 弘前八幡宮祭礼図巻

『紙本著色 弘前八幡宮祭礼図巻』に描かれた土手町「猩々山(しょうじょうやま)」。(弘前市立弘前図書館:所蔵)

町内ごとの「山」は北門より入城、城内を練り歩く

山車行列は田町の八幡宮を出て弘前城の北門から入り、城内を踊りながら練り歩いたという。その様子を、信政は二の丸辰巳の矢倉(やぐら)で、信政の生母・久祥院(きゅうしょういん)は二の丸の丑寅の矢倉で、共にご馳走を食べて見学をしている。山車の題材は各町会の歴史や特徴をいかしており、能や謡曲、故事来歴などを引用して表現している。また、京都の祇園祭、大阪の天満宮、江戸の三社祭の影響を受けた、人形を中心とした高欄付きの装飾は、後の弘前組ねぷたに影響を与えたともいわれている。
弘前市立観光館に隣接する「山車展示館」では、現存する7つの山車を保存・展示。人形や衣装のなかには、300年近く前の享保年間のものもあり、現在では技術的に再現不可能なものも多く、貴重な文化遺産となっている。現在、弘前八幡宮の例大祭は8月1日で、津軽神楽の奉納などが前夜祭から行われる。

紙本著色 弘前八幡宮祭礼図巻
紙本著色 弘前八幡宮祭礼図巻

『紙本著色 弘前八幡宮祭礼図巻』は、弘前藩の御用絵師「今村養淳(ようじゅん)」(1823年隠居)が描いたと伝えられる作品で、全5巻からなる大絵巻。“山屋台”とも呼ばれる「山」は各町内ごとに練り物(人形)が異なり、「町印(ちょうじるし)」(上)を先導に、御神輿や獅子舞(下)などを伴い練り歩く。(弘前市立弘前図書館:所蔵)

津軽各地の八幡宮例大祭

鰺ケ沢町の「白八幡宮(しろはちまんぐう)」は、藩政時代、弘前八幡宮・浪岡八幡宮と共に”津軽三八幡宮”と呼ばれた。西廻り航路の重要な地位にあった鰺ケ沢港の鎮守として、歴代藩主も崇敬したという。延宝8年(1680)に始まった「白八幡宮大祭」は、京都の祇園祭の流れをくみ「津軽の京祭り」と呼ばれ、一大絵巻のように勇壮華麗な伝統行事である。御神輿渡御(おみこしとぎょ)行列では、白八幡宮と白鳥大明神(しらとりだいみょうじん)の二柱の御神輿を中心に、古式ゆかしい衣装をまとった約300人の人々が連なり、その後に各町会の山車が続く。神輿は、貞享2年(1685)、鰺ケ沢町中の寄進によるもの。現在、祭りは4年に1度、8月14日〜16日に行われている。
青森市浪岡は、津軽平野のなかでも最も早く開かれた土地で、室町時代に南朝の名門・北畠氏の一族が城を築いて栄えた。「浪岡八幡宮」は、この城跡の入り口にあり、城の守護神であった。津軽為信によって城が滅ぼされた後も藩は八幡宮を保護し、3代藩主信義(のぶよし)が改築・補修を行った。毎年8月15日の浪岡八幡宮例大祭をはさんで「浪岡北畠まつり」が開催され、御神輿渡御、ねぶた運行、北畠武者行列などで賑わう。

紙本著色 弘前八幡宮祭礼図巻

『紙本著色 弘前八幡宮祭礼図巻』に描かれた、茂森町の山。(弘前市立弘前図書館:所蔵)

上記の参考文献・資料
『改訂 津軽の祭りと行事』船水清:著(北方新社)/『青森県の民間信仰』小舘衷三:著(北方新社)/『弘前八幡宮祭礼詳解』田澤正:著(北方新社)

上記の取材協力
弘前市立弘前図書館